作品タイトル不明
小さな生命
話は、少しだけ遡る。
ラニアが消えてから――リリアーナは、静かな日々を送っていた。
ラニアも、ロキもいない。あまりにも静かで、どこか空白のような時間。それでも、冬に魔獣が来ないという事実は、人々の心をわずかに緩めていた。
恐れに張り詰めていた空気は薄れ、領地には穏やかな日常が戻りつつあった。
その中で、リリアーナは、常に何かをしていた。
甘甘草の様子を見に行き、一本一本を確かめる。調合室にこもっては、薬草を刻み、混ぜる。手を止めれば、考えてしまうから――そうしているようにも見えた。
そして、時折マルグリットと並んで、皇国から届いた織物を広げる。
「この色、外套にしたら良さそうね」
「でも、こちらの方が丈夫かもしれません」
布の手触りを確かめながら、二人は静かに言葉を交わす。
やがてリリアーナは、一つの形を決めた。エドモンドのための、外套。深い色合いの布を選び、裏地には少し柔らかいものを合わせる。動きを妨げず、それでいて寒さを防ぐように。
針を手に取る。慣れているわけではない作業に、最初は指を刺しそうになりながらも、慎重に、丁寧に縫い進めていく。
一針、一針。形になっていくたびに、少しだけ息をつく。けれど、簡単ではなかった。
縫い目が歪めば、ため息をついて、また最初から。それでも、やめることはなかった。
時間をかけて、ゆっくりと。確かに、形は出来上がっていく。
二時間も続けると、指先は疲れ視界もぼやけてくる。それでも最後に、布をそっと撫でてから、針を置いた。
――今日は、ここまで。
そんな日々を、リリアーナは重ねていた。
最初にそのことを口にしたのは、エドモンドだった。
「……遅れてないか?」
唐突な言葉に、リリアーナはきょとんとした。
一瞬、何を言われたのか理解できない。けれど、少ししてその意味が、胸の奥に落ちてくる。
「え……、そうだけど。でも、色々あったし」
歯切れの悪い答えだった。
自分でも、遅れていることは分かっている。
それでも、もしかしたら明日には、と。そんな曖昧な考えを捨てきれず、判断を先延ばしにしていた。
エドモンドは、じっとリリアーナを見たまま続けた。
「食欲は?」
「変わらない……」
「疲れやすいとか」
「それは、いつもかな?」
少しだけ、困ったように笑う。
「……気持ち悪いとか」
「特に、無いの……」
一つひとつ、確かめるような問い。
だが、そのどれもが決定打にはならない。エドモンドは、内心で小さく息を吐いた。事前にマルグリットから聞かされていた。リリアーナに関して注意すべきこと、起こり得る変化。思いつく限りの兆候。――けれど。
「症状は個人差が大きいから、総合的に判断するのよ」
そう言われていたが。
……無理だろう。
エドモンドは、静かに思った。
目の前のリリアーナは、いつも通りに見える。
少しだけ、迷いと不安を抱えている以外は。
それを見極めろと言われても――どうすればいいのか、分からなかった。
来ない日が、いくつも重なっていった。
そのたびに、リリアーナは数え、考え、そしてまた考えるのをやめた。
けれど、ある時ふと胸の奥に、思いが浮かぶ。
……もしかしたら。
それでも、外から見て分かる変化は、何もない。よくあると言われる気持ち悪さも、リリアーナにはまるでなかった。けれども。
「無理をしないことだ。重たい物も持つな」
エドモンドは、静かに優しく言った。
「……うん」
リリアーナは頷く。
実際、無理はしてないし、重たい物を持とうとすれば、その前にエドモンドが手を伸ばしていた。当たり前のように、自然に。
そんな二人の様子を、少し離れたところから、オルフェウスとマルグリットは静かに見守っていた。
何も言わず、ただ見ているだけ。
時々、エドモンドは違った。誰よりも注意深く、リリアーナの一つ一つの様子を追っていた。
以前、リリアーナは“種を植えられた”。だからこそ、今回は違うと、言い切ることができない。。
今日も、リリアーナは変わらない。
穏やかで、静かで、いつも通り。
その姿を確認してエドモンドは、誰にも気づかれないように、密かに息を吐いた。
小さな、安堵の吐息だった。
やがて――リリアーナの下腹は、はっきりと分かるほどに膨らみ始めた。
もう、迷いはなかった。リリアーナも、エドモンドも、新しい生命がここにある、と確信した。
二人は、オルフェウスとマルグリットのもとを訪れ、そのことを伝えた。言葉にした瞬間空気が、やわらかくほどけた。
「……そうか」
オルフェウスは静かに目を細めた。
その声音は落ち着いていたが、確かな安堵と喜びが滲んでいる。マルグリットは、ふっと微笑んだ。
「おめでとう」
その一言には、抑えきれないほどの温かさがあった。そして、少しだけ肩の力を抜くようにして、続ける。
「もっと前から、そうかもしれないとは思ってたわ。でも、あなた達から聞きたかったの」
その言葉は、ただの予想の話ではなかった。
マルグリットは、気づいていた。リリアーナの変化も、エドモンドの過剰なほどの気遣いも。
けれど、それを先に口にすることはしなかった。もし違っていたなら、希望を押し付けることになる。もし本当だったとしても、それは――二人自身が、見つけて、受け止めるべきもの。
だから、待っていた。自分たちの言葉で、それを告げてくれる時を。
リリアーナは、そっと自分の下腹に手をあてた。まだ小さい、けれど確かにそこにある温もり。
目を閉じる。
……どうか。無事に、生まれてきますように。
ただ一つの願いを、静かに、強く胸の中で結んだ。