作品タイトル不明
ある精霊の話
僕が「ラニア」と呼ばれるようになってから、少しずつ“人間”というものが分かるようになった。
あの泉で眠り、ラディンから貰い、こうして形を得て成長していく中で、知ることは確かに増えていった。
笑うことも、悲しむことも、誰かを大切に思うことも。全部、少しずつ理解していった。
けれど、その頃からほんの僅かな違和感があった。
何かが、噛み合っていない。どこかが、ずれている。それでも僕は、それを気のせいだと思うことにした。
……いや、そう信じていた。
けれど、あの熊と対峙した時。ラディンから与えられたのを受け取り、リリアーナのそばへ近づけたと確信したのに。時が過ぎるにつれ、はっきりと理解してしまった。
精霊と人間は、交われない。それは感情や願いの問題じゃない。 理(ことわり) だ。
どう足掻いても、覆ることのないもの。その時から、ラニアという身体は、ほんの少しずつ崩れ始めていた。
だから僕は、魔力で無理やり繋ぎ止めた。けれど、長くは持たないと、いつしか分かってしまった。
でも、誰にも言わないと、僕は決めた。
だから、文字を覚えた。何かを残したかった。少しでもラニアとして在った証を。そんな時に皇国へ行く話が出た。
あの泉から離れれば、おそらく僕は……。それでも、リリアーナ一人では、出来ないこと。
彼女が望むなら、出来るだけ叶えたかった。だから僕は旅の間、精霊としての自分の力を削って、“ラニア”を保ち続けた。
セリウスの婚約者に魔力を使うのは、正直かなり厳しかった。
それでも、リリアーナが望むから。
それだけで、十分だったんだ。
帰り道。ローデンに「……俺のこと、どう思う?」と聞かれたとき、僕はそれを、よくある人間の会話だと思った。
相手を意識したときに、少しだけ踏み込むための、ありふれた切り出し。けれど、ローデンの瞳を見た瞬間、理解してしまった。
ああ、そうか。リリアーナは、こうしてエドモンドの隣を選んだのか、と。
言葉ではなく、まっすぐに向けられる想い。
迷いながらも、それでも手を伸ばそうとする強さ。
今を懸命に生きる人間は、眩しい。……本当に、眩しい。
でも、僕には先がわからない。
ラニアという身体から離れて、再び精霊として存在するべきなのか。それとも、このままラニアと共に消えるべきなのか。
答えは、まだ出ていない。
ただ、泉の近くまで来ている。きっと、間に合うはずだと、どこかで思っていた。
だから、このまま、誰にも知られずに。この世界が、もうしばらく続いていくのだと、そう信じていた。
矢が、空気を裂いて飛んできた。
次の瞬間、男が現れる。その手に握られていた魔道具は――これまで見てきたどれよりも、禍々しかった。
あれは、いけない。そう思ったときには、もう走り出していた。
リリアーナは守れた。けれど、もう限界だった。
ラニアの身体も。そして、僕という精霊の力も。リリアーナから流れ込んでくる魔力は、まだある。けれど、それを受け止める器が、あまりにも壊れすぎていた。
「……だから」
思わず、言葉がこぼれる。
そのときだった。
ふと、リリアーナの中に、微かな“何か”を感じた。小さな、小さな存在。
普段なら、決して気づけないほどの、かすかな気配。リリアーナの魔力に覆われて、見えなかったもの。
リリアーナが魔力を非常に多く使ったから、今は――はっきりと、わかった。
それは、生きようとしていた。同時に、今にも消えようとしていた。リリアーナの魔力が、強すぎるのだ。その小さき存在には。
「……ごめん」
僕は、呟いた。
もう二度と、リリアーナの中には入らないと決めていた。それでも、あれは、リリアーナが望んでいたものだから。
だから僕は、残された力を、その存在に注ぐことにした。すべてを使えば、僕は消える。
それでも守れる保証なんて、どこにもない。
それでも――いい。
ここで何もしない方が、嫌だ。
僕は、そっとリリアーナに入り、その小さな命を包み込んだ。リリアーナの魔力に馴染むように。ちゃんと、この世界で育っていけるように……願いを、込める。
削り尽くされた僕の力は、かえって都合が良かったのかもしれない。リリアーナの身体を壊すこともなかった。
ただ、静かに、寄り添うように、小さき存在を守る。
それだけを、最後に選んで。
僕は、意識を手放した。
どれくらいの時が過ぎたのか、わからない。
時間の感覚は曖昧で、長い夢の底に沈んでいたような気がする。
どこか遠くから、声が届いた。
「ラニア」
やさしく、呼ばれる。
その声は、よく知っているものだった。あたたかくて、安心できる響き。リリアーナの声だ。
もう一度、名前が呼ばれる。そっと触れるように、確かめるように。
………僕は、ゆっくりと目を開けた。