作品タイトル不明
ローデンの決意
ローデンは、混乱したままだった。
現実のはずなのに、どこか現実から取り残されているような感覚が抜けない。その様子に、エドモンドが気づいた。
「もしかして、体調が悪かったのか?」
リリアーナも、心配そうに顔を覗き込む。
「……無理してここまできたの?」
「……いや、少しふらつくだけだ」
ローデンは、反射的にそう答えていた。
「すまん。気がつかなかった。休んでくれ」
エドモンドにそう言われるまま、ローデンは半ば押し込まれるように客室へと連れて行かれる。
「顔色が悪い。横になっていた方がいいぞ」
ローデンは、ベッドに身を沈めた。しかし、目を閉じても、何も落ち着かない。
腕を目の上に乗せる。
……ラニアだ。ただ、そうだとしか思えなかった。ロキの存在。そして、あの瞳。説明できるものは何一つないのに、確信だけが胸に残る。
押し殺してきた何かが、内側から溢れ出た。ローデンは、それをどう止めればいいのか分からなかった。
そして、翌日。
ローデンは、北の領地を発つことを決めた。セリウスから預かった謝礼を、エドモンドに差し出す。
「多いぞ」
「最後、だからな」
短く答える。それから、赤ん坊を抱いているリリアーナへ視線を向けた。
「……抱いてみても、いいか?」
「いいけど……大丈夫?」
リリアーナは、不安そうにローデンの顔を覗き込む。だが、ローデンはそれに気づかない。
「はい、こうやって抱くの」
そっと、赤ん坊が腕の中に渡される。小さな体は驚くほど軽くて、柔らかい。赤ん坊は、じっとローデンを見つめた。そして、ふわりと笑う。
「ろー」
小さな手が、伸びる。
その瞬間、ローデンの全身が震えた。
銀色のはずの瞳。けれどやはりその奥に、確かに金が見える。
「……ラニア」
思わず、名前が零れた。赤ん坊は、ただ嬉しそうに笑い、柔らかな手でローデンの頬に触れる。
――また来る?
一瞬だけ、頭の奥に響いた声は、幻ではない。金色の瞳は、ローデンの瞳を捕らえていた。
「ああ」
それだけを、ローデンは口にした。ローデンは、そっと赤ん坊をリリアーナへ返す。少しの間を置いてから、エドモンドへ向き直った。
「……たまに、ロキに会いにきてもいいか?」
「……ロキ、にか?」
戸惑いを隠せない声。
「そうだ」
……酷い言い訳だ。自分でも、そう思う。どう考えても不自然で、理解されるはずもない。それでも、ラニアを見ていたい。
見るだけなのか、それ以上を望むのか。
そこから先の思考は、うまく形にならなかった。
「織物でも、手土産で持ってくる」
そう付け加えると、リリアーナの顔がぱっと明るくなる。
「ええ。いつでもいいわ」
即答だった。マルグリットが織物をとても大切に扱っているのを見ていた。エドモンドは少し呆れたように息をつきながらも、
「来るときは、手紙でも寄越してくれ」
とだけ言った。
ローデンは、最後にロキを見た。
ロキは一瞬、赤ん坊を見てから、ローデンへと視線を移し、そのまま静かに見つめ返した。
ローデンは、小さく頷いた。ロキは、尻尾を一度だけ振った。それで、十分だった。
ローデンは何も言わず背を向ける。
もう振り返らない。
だが、その胸の奥には、確かに――失われたはずのものが、もう一度灯っていた。
ローデンは、皇国への道を急いでいた。
一度だけ足を止めた、あの場所。無意識のように、再び同じ場所に立っていた。
何も変わらない景色。それでも、胸の奥だけが違っていた。
ローデンはしゃがみ込み、道すがら摘んだ花を、そっと地面に置く。以前と同じ動作のはずなのに、胸の内が妙に熱を帯びる。
しばらくそのまま動かずにいた後、ゆっくりと鞄に手を入れる。
取り出したのは、あの髪飾り。壊れないように、慎重に。けれど、思わず力がこもる。
指先に伝わる硬さが、やけに現実的だった。
「……ラニア」
零れた名前には、抑えきれない熱が滲んでいた。
――人外が、今度は人間か。
思考が、どこか冷静に巡る。目にした姿は、どう見ても普通の人間の赤子だった。
ローデンは、わずかに口角を上げた。
人間なら、問題はない。年齢など関係ない。
時間はいくらでもある。
地位、力、金。それだけ揃えば、望むものは手に入る――酒場で聞いた言葉が、ふと頭をよぎる。
ローデンは知らない。
それがどれほど偏ったものか。どれほど重く、歪んだ価値観か。
それでも、ローデンは、自分の直感を疑わなかった。
……ラニアは、俺の手を取る。
その確信だけが、迷いなく胸の奥にあった。
……今は、何も求めないけどな。
ローデンは再び、皇国への道を急ぐ。力強い足取りで。