作品タイトル不明
リリアーナの腕の中
そのときだった。
――かすかな声が、聞こえた気がした。
「……いけない」
リリアーナが、はっとしたように顔を上げる。
「すぐ戻るから」
そう言い残し、慌ただしく調合室を出ていった。
扉が閉まる。静けさが戻る中、ローデンはゆっくりと顔を上げた。エドモンドは、リリアーナの去っていった方を、どこか優しい目で見つめている。
「……手紙は、もらっていいのか?」
しばらくして、ローデンはようやく口を開いた。
「ああ」
エドモンドは頷く。
「色々あってな。見つけるのが遅くなった」
「……そうか」
ローデンは短く応じると、手紙と包みを丁寧に鞄へとしまった。
まるで、壊れやすいものを扱うように。
……セリウスには、礼を言わなければな。
胸の奥で、静かに思う。
「あの、さ。ローデン。自分を責めなくていいからな」
エドモンドは、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「あれは、誰もどうしようもなかった。あの罠だって、恐ろしいほど念入りに作られていた」
静かに、しかしはっきりと続ける。事実を並べることで、少しでもローデンの負担を軽くしようとしているのが分かった。
「慰めは要らない」
短く、ローデンは言った。その声には、拒絶があった。感情を押し殺した、硬い響き。
……ここは、ラニアとの思い出が多すぎる。胸の奥に浮かぶその思いを、押し込める。長く留まるべき場所ではない。
「過ぎたものは、戻らない。あるのは現実だけだ」
ローデンは、エドモンドを見ることなく言った。視線は、どこにも向けられていない。ただ前を見ているようでいて、何も映していない。その瞳は、ひどく空虚だった。
エドモンドは、何も言えなかった。
やがて、扉が再び開いた。
「お待たせ」
戻ってきたリリアーナの腕の中には、小さな赤ん坊が抱かれていた。ふわりとした――紫色の髪。その色に、ローデンの視線が止まる。リリアーナは、とても柔らかな笑みを浮かべていた。
「あのね、ラニアって名前にしたのよ」
その言葉に、エドモンドが小さく肩をすくめる。
「……俺は反対したがな」
「男の子ならエドモンド様、女の子なら私って、決めてたでしょう?」
リリアーナは少しだけエドモンドを睨みつける。エドモンドは、困ったように笑った。
「それでね、髪は私の色で……瞳とか、他はエドモンド様に似てるのよ」
愛おしそうに、腕の中の子を見つめる。
……ラニア、なんて。よく、そんな名前をつけられるな。頭がどうかしているんじゃないか。
ローデンはそう思ったが、言葉にはしなかった。そのとき、視界の端もうひとつの気配が映る。
「……ロキ、か?」
リリアーナの後ろに、変わらぬ姿で一匹の獣がいた。
「そうなのよ。一月くらい前かな?突然現れてね。驚いたの」
リリアーナが嬉しそうに言う。ローデンは、ロキを見つめた。大きさも、姿も、何も変わっていない。だが、確かに、そこに“ロキ”がいた。視線を、ゆっくりと赤ん坊へ戻す。
「……ラニア?」
思わず、言葉が零れた。封じていたはずの名前。その音に反応するように、赤ん坊が顔を向ける。
銀色の瞳。けれど、ローデンの目には違って見えた。
……どうしてだ。銀の奥に、かすかに金が見える。
目を擦る。しかし、やはりただの銀には見えなかった。
「そうだよ、ラニアだよ」
リリアーナは、何の疑いもなく微笑む。エドモンドもまた、穏やかな目でその光景を見ていた。
……本当に、ラニアなのか?だが、ラニアに感じた“異質さ”はない。まるで、別の存在のようで、それでも。
混乱が、胸の奥で広がる。そのときだった。
赤ん坊と、視線が合った気がした。
「……ろー」
小さな手が、ふわりとローデンへ伸びる。
「ふふっ。ラニアは、いつも『ろー』なのよ」
リリアーナが、楽しそうに笑う。
「全くだ。ロキも『ろー』だしな……いや、俺は言われてないぞ」
エドモンドが、今さらのように言う。
「あれ?そうだっけ?」
リリアーナは、首を傾げながら赤ん坊を覗き込む。赤ん坊は声を出した。
「……りー」
ローデンには、そう聞こえた気がした。
リリアーナは、優しく微笑んだ。
「これから、だよね」
その言葉は、誰に向けたものなのか。
静かな空気の中で、柔らかく溶けていく。
ローデンは、ラニアから視線を逸らす事が、出来なかった。