作品タイトル不明
ローデン 再び北の領地へ行く
ローデンは、北の領地へと続く道を歩いていた。
もう二度と踏まないと、そう思っていた道だった。足を進めるたびに、閉ざしたはずの記憶が、容赦なく浮かび上がる。
あの森、あの瞬間、あの声。
「……ふざけんな」
気づけば、口から零れていた。苛立ちとも、怒りともつかない感情が、胸の奥で燻っている。
――あの時。いつもなら、罠の気配など、とっくに察していたはずだった。人の殺気を見逃すことなど、一度もなかった。
それなのに。
どうして、気づけなかった。
どうして、手を伸ばせなかった。
思考を打ち消すように、ローデンは小さく息を吐く。だが、消えない。どれだけ戦場に身を置いても、血の匂いの中にいても。
忘れられるのは、その最中だけだった。
刃を振るい、命を奪い、奪われる――その瞬間だけが、自分がまだ“ここにいる”と実感できる時間だった。
それ以外は、ただ、空白だ。
ローデンは顔を上げない。
視線は落としたまま、それでも感覚だけは鋭く周囲を捉えている。風の流れ、草の擦れる音、遠くの気配。すべてを拾い上げながら、歩みを止めない。
もう二度と、見逃さない。
その執念だけが、彼を前へと進ませていた。
ローデンは、北の領地の近くまで辿り着いていた。そして――ある場所で、足が止まる。
そこは、ラニアが目を閉じた場所だった。
一歩も、動けなかった。
しばらくの沈黙の後、ローデンは静かに鞄へ手を伸ばす。取り出したのは、小さな髪飾りだった。
一年前に買った、結局渡すことのなかったもの。それを、ただ無言で見つめる。
指先に、わずかに力が入る。
――一度は、捨てようとした。一度は、土に埋めようとした。それでも、できなかった。
理由は、自分でも分からない。
ローデンはゆっくりとそれを鞄へ戻す。まるで、壊れ物を扱うように、丁寧に。
代わりに、懐から取り出したのは、道中で摘んだ花だった。
名も知らない、どこにでも咲いている花。それを、そっと地面に置く。おそらく、すぐに枯れるだろう。形も、すぐに失われる。それでいい、とローデンは思った。
残るものより、消えていくものの方が――相応しい気がした。
名前は、呼ばなかった。呼べば、すべてが言い訳になる気がした。
だから、何も言わない。ただ、そこに立ち、そして、背を向ける。
振り返ることはなかった。
ローデンは、城へと辿り着いた。
門をくぐった瞬間、胸の奥にわずかな違和感が走る。
……色褪せていると思っていた。だが、目の前の光景は、一年前と何一つ変わっていない。
最初に迎えに出たのは、エドモンドだった。
ローデンの姿を見て、ほんのわずかに目を見開く。その変化を隠しきれないまま、口を開いた。
「久しぶりだな」
「ああ」
短い応答。エドモンドは一瞬、言葉を探すように間を置いた。ローデンの痩せた身体、削ぎ落とされたような気配――その変わりように戸惑っているのが分かる。
だがローデンは、それを気にする様子もなかった。
「それで、残された物とは?」
淡々とした声音。
「ああ……こっちだ」
エドモンドはわずかに躊躇ったあと、踵を返す。
案内されたのは、調合室だった。扉をくぐると、そこもまた、変わっていなかった。
棚の配置も、漂う香りも、置かれた器具も。
まるで時間だけが、そこを避けて流れているかのように。ローデンは、ほんの少し目を細めた。
「……ローデンなの?」
背後から声がした。振り向くと、リリアーナがこちらへ歩いてきていた。
「驚いた。なんか、とても痩せてるし」
じっと、ローデンを見つめる。
「雰囲気も……」
言葉を続けようとした、その瞬間。
「それより、物は?」
ローデンは、遮るように言った。
「……そうだね」
リリアーナはそれ以上何も言わず、調合室の奥へと入っていく。その背中を見ながら、ローデンの胸の奥に、微かな苛立ちが生まれた。
……どうして、この二人は、何も変わっていないんだ。理由の分からない感情だった。
リリアーナは棚の奥から、小さな包みを取り出した。模様の入った布で丁寧に包まれている。それを、ゆっくりと解く。
中から現れたのは、さらに小さな包みと、二通の手紙だった。
包みの中身は見覚えがあった。以前、セリウスの婚約者に渡したものと、同じ。リリアーナは何も言わず、それらをローデンに差し出す。
ローデンは、無言で手紙に目を落とした。
一通目。
『これを見てるってことは、僕はきっといないね。この葉は、セリウスの大切な人に渡して。一番、効くだろうから。
そして、ありがとう。 ラニア』
そこで、指先がわずかに止まる。
そして、もう一通。
『ローデンに。
字を教えてくれて、嬉しかった。楽しかったよ。 ラニア』
誰も、何も言わない。時間だけが、ゆっくりと流れていく。
ローデンは、手紙を握りしめることもできず、ただ、そこにある言葉を受け止めるしかなかった。
胸の奥で、溢れそうになる。押し殺してきた感情、戦場で踏み潰し続けてきたもの。それが、今になって。だが、ローデンは何も言わず、ただ必死にそれを内に押し留める。
零れ落ちないように。
ただ、静かに、立ち尽くしていた。