作品タイトル不明
帰り道④
ローデンは走った。
だが、近づけない。黒い糸が空間ごと軋ませる。触れれば裂かれ、踏み込めば潰される。理屈ではなく、本能が拒んでいた。
男は、その様子を見て嗤った。喉の奥から、濁った笑い声を漏らして。
魔道具は、止まらない。ラニアは、その中心にいた。黒い糸が、全身に食い込み、衣服は裂け、皮膚が割れ、血が滲む。それでもラニアは、わずかに顔を上げた。
「……っ」
息が、うまく吸えない。でも、目だけは、まだ死んでいない。
ゆっくりと、腕を上げる。
震える指先で、絡みつく黒い糸に触れた。糸が、わずかに震える。ただの刃ではない。これは、魔力で形を保つ“縛り”だ。
ラニアは、目を閉じた。
息を整える。自分の中の流れを、探る。外から押し潰す力。内から巡る、自分の力。ぶつかるのではない。――“ほどく”。
絡まった糸を、一つずつ見つけるように。触れた部分から、わずかに魔力を流し込む。拒絶される。なら、押さない。
“隙”を探す。
縫い目のような、わずかな歪み。そこへ、静かに差し込む。
……ほどけ。
黒い糸がきしみ、一本がわずかに弛む。
ラニアは、強く息を吐いた。内側から、まとめて押し広げる。弾けるように、力が走った。
黒い糸が、一斉に震え――切れた。音もなく、力を失い、ただの縄のように地へと落ちる。
同時に、ラニアの身体から、力が抜けた。
まるで糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。
「ラニア!」
リリアーナが駆け寄る。
膝をつき、その身体を抱き起こす。
「今、治すから」
迷いなく、治癒の力を発動する。淡い光が、ラニアを包む。けれど。
「……どうして?」
リリアーナの声が、震えた。
「血が、止まらないの?」
癒やしの光が流れている。それなのに、傷が閉じない。
リリアーナは、気づいた。ラニアの身体の内側。皮膚の下に、黒い何かが残っている。
糸の、欠片。それが、肉の中に食い込み、なおも動いている。傷を閉じようとするたびに、それを裂き、広げる。
「……嘘」
思わず、手を伸ばす。
引き抜こうとした、その瞬間。
「だめ……さわったら……」
ラニアが、かすれた声で言った。
「これは、……だから……」
言葉が、途切れる。呼吸が浅い。意識も、揺れている。
「魔道具は、目的が終わるまで止まらない」
背後で、声がした。男が、嗤っている。大きく、壊れたように。
「……終わりだ」
そのまま、力が抜けるように、完全に倒れ込んだ。ローデンは、駆け寄り、男の身体を押さえつける。
「方法が、あるだろう!?」
叫び、胸ぐらを掴んで揺さぶる。
「止め方を言え!」
何度も、何度も揺らす。しかし、反応がない。力の抜けた身体が、ただ揺れるだけだ。
ローデンの手が、止まった。
ローデンの顔色が抜ける。
「……死んでる?」
呟きが、静かに落ちた。
リリアーナは、ラニアに手を当て続けていた。光は、途切れない。何度も、何度も、治癒の力を流し込む。
だが、血は、止まらない。
傷は閉じかけては裂け、裂けてはまた滲む。まるで内側から、壊され続けているようだった。
「……」
ラニアは、何も言わない。
呼吸は浅く、細い。目も、ほとんど開かない。エドモンドも、ローデンも、動けなかった。何をすればいいのか分からない。
ただ、見ていることしか出来なかった。
そのとき、ラニアの口が、わずかに動いた。
「何?」
リリアーナが顔を寄せる。
耳を近づける。それは、本当にかすかな声だった。
「……ごめん」
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「まだだよ、違うよ」
リリアーナは、すぐに言った。
強く、否定するように。
「まだ終わってない。大丈夫、すぐに――」
言いながら、ラニアの身体に残る黒い欠片へ手を伸ばす。
引き抜けば、きっと――
その手を、エドモンドが掴んだ。
「放して」
リリアーナは言う。振り払おうとする。けれど、エドモンドは離さない。
「駄目だ」
低い声だった。
「……それに、もう……」
言葉が、続かなかった。リリアーナは首を振る。
「違う」
もう一度、ラニアに手を当てる。治癒を、流す。今までよりも強く、深く。……その瞬間、分かった。
「……あ」
手の感触が、違う。流れが、違う。
そこにあったはずのものが――もう、ない。
「……嘘、でしょ?」
リリアーナの声が、崩れた。
治癒は、まだ続いている。けれど、それはもう、届いていなかった。
ローデンは、立ち尽くしていた。
何も出来なかった。何一つ、間に合わなかった。
ただ、それを見ていることしか、出来なかった。