作品タイトル不明
ローデンの夢
ローデンは、夢を見ていた。
それは、遠い昔の記憶。
まだ母が若く、穏やかな笑みを絶やさなかった頃。幼いローデンは、毎晩のように母の膝に寄り添い、絵本を読んでもらっていた。
柔らかな灯りの下で、ページをめくる音が静かに響く。
ローデンが好きだったのは、決まって同じような物語だった。
囚われの姫を助ける騎士。人々を苦しめる魔物を討つ勇者。戦いを勝利へと導く、英雄。剣を振るい、誰かを守る者たち。
幼いローデンは、その物語に胸を躍らせていた。
自分も、いつか、剣を握り、戦うのだと。
まだ小さな手をぎゅっと握りしめながら、そう信じていた。
ある日のことだった。
母が、いつもより少し楽しげに微笑んで言った。
「今日はね、珍しい異国の絵本が手に入ったのよ」
ローデンは、その言葉に目を輝かせた。差し出された本を開いた瞬間、思わず息をのむ。
そこには、今まで見たことのない色使いと、精緻で美しい絵が描かれていた。
物語は、短いものだった。
――ある国に、とても強い騎士がいた。
どんな相手と戦っても、決して負けることはない。戦が起これば先頭に立ち、必ず勝利へと導く。魔物が現れたと聞けば、誰よりも早く駆けつけ、迷いなくそれを討ち倒した。
その強さと功績に、誰もが彼を讃えた。
素晴らしい騎士だと。
英雄だと。
幼いローデンは、食い入るようにその物語を見つめていた。
ある時、町の外れに魔物が現れたという噂が広がった。
最初は、そこへ向かった娘が戻らなかった。ただそれだけの話だった。
戻らないのが、一人、二人の時点で、偶然かもしれないと誰もが思った。だが、五人、六人と数が増え、さらに探しに行った者までもが帰らなくなる。
やがて消えた者は十人を越え、人々は確信した。
――あれは、魔物だ。
そして、英雄と呼ばれた男が、その場所へ向かった。その頃には、すでに二十人以上が姿を消していた。
中には腕に覚えのある者もいれば、歴戦の傭兵もいた。それでも戻らなかった。
男は、愛馬とその地に足を踏み入れた。
そして、見つけた。
そこにいたのは、ひとりの若い娘だった。
……魔物だ。そう直感した。
だが娘は、静かに口を開いた。
「私を助けようとして、多くの人が死にました」
かすかな声だった。
「私を、殺して下さい」
男は娘を見た。
よく見れば、娘の足には草が絡みついている。ただの草ではない。異様な力を帯びたそれは、まるで生きているかのように、娘を縛りつけていた。
男は剣を抜き、それを斬ろうとした。
しかし、どんなに力を込めても、刃は通らない。剣よりも硬い何かだった。
男は眉をひそめ、問いかける。
「食事は、どうしているのだ?」
娘は、わずかに視線を落とした。
「私が寝ている間に、何かがやってきて、食べ物を置いていくのです」
静かな答えだった。
「お願いです。殺して下さい」
娘は繰り返した。
「それが出来ないのなら、放っておいて下さい」
それきり、口を閉ざす。
娘は、透き通るように白い肌をしていた。
澄んだ瞳が、地面を見ている。薄い茶色の髪が、耳からはらりと落ちた。
男は、胸に何かが刺さった気がした。どうしても、その場を離れることができなかった。
その時。彼が連れてきた馬が、突然嘶いた。
怯えるような声だった。
男は振り返り、馬のもとへ駆け寄る。
落ち着かせるように手を伸ばし、静かにあやす。
やがて馬は、ようやく静まった。男は振り返る。
そこに、娘の姿はなかった。周囲を探す。
だが、何も見つからない。気配も、痕跡も。
まるで最初から、何もいなかったかのように。
しばらくその場に立ち尽くした後、男は町へと戻った。
無事に帰ってきた英雄を見て、人々は驚き、そして歓喜した。
ところが、男は、何も語らなかった。
男は、もう一度あの場所へ向かった。
それは、夜中のことだった。誰にも告げず、ただ一人で。
静まり返った闇の中――娘は、そこにいた。
そして、男は見た。蠢く影を。地面を這うように、形を持たぬ何かがうごめいている。
男は迷わなかった。剣を抜き、そのまま影へと斬りつける。
次の瞬間。影は、耳を裂くような凄まじい声をあげた。
娘が、はっと目を見開く。男はすぐに娘へと視線を向けた。
その足に絡みついていた草は、黒く変色し、崩れるように地面へと落ちていく。
拘束は、解けた。男は静かに手を差し出す。
けれど、娘は、ゆっくりと首を振った。
「何故だ?」
男は問う。娘は、かすかな声で言った。
「私は、もう……人ではないのです」
その周りに散らばる食べ物は、よく見ればどれも異質だった。
どこか歪で、生命の気配を感じさせない。
男は、それを見て、理解した。
そして――剣を構える。
「悪いな」
静かな声だった。
次の瞬間。男の剣が、娘の胸を貫いた。娘がふらりと倒れそうになる。男は、何故か娘を支えようとした。
だが同時に、娘が隠し持っていた短剣が、男の胸を貫いていた。
血が、静かに地面へと落ちる。
娘は、くすりと嗤った。
「ふふふ。一緒。ずっと、貴方を待ってた」
その声は、どこか嬉しそうですらあった。
「あの日、一目見た時から」
男は、その場に崩れ落ちる。娘もまた、同じように倒れた。
夜は、何事もなかったかのように静まり返った。
翌朝。英雄の姿が見えないことに気づいた町の人々は、捜索に出た。そして、見つけた。
命を落とした男と、娘の姿を。
男は、穏やかな微笑みを浮かべていた。
その腕の中で、娘は男を抱きしめていた。
まるで――幸せであるかのように。
それ以来。
あの地に、魔物が現れることは二度となかった。
物語の終わりを聞いたとき、幼いローデンは眉をひそめた。
胸の奥に、言いようのない不快さが残る。
……嫌な話だ。そう思った。
魔物に負けるなんて、格好悪い。英雄なのに。強い騎士なのに。
それなのに、どうして。
どうして、男は最後に笑っているのか。理解できなかった。
「この話、嫌いだ」
ローデンは、はっきりとそう言った。
母は少しだけ困ったように微笑んだ。何かを言いかけて、けれど言葉を選ぶように黙った。
あの時は、分からなかった。
でも、今なら、少しだけ分かる気がした。
ローデンはゆっくりと目を開けた。
現実に引き戻される。
胸の奥に残るのは、あの物語と同じような、割り切れない感情。
「……最悪だな。本当に」
小さく呟く。
吐き出したのは、ため息だけだった。