作品タイトル不明
ラディンの鞄
ラニアは、縛られた熊を見つめた。
黒い光の縄が深く食い込み、巨体を締めつけている。
その様子をしばらく眺めたあと、ぽつりと呟いた。
「これ、とても面倒なんだよね……」
「……このままで、良いんじゃないのか」
ローデンが言った。
エドモンドも黙って頷く。
確かに、熊は動けない。危険は、今のところない。
しかし、リリアーナは、じっと熊を見ていた刃の縄が食い込んでいる場所から、血がじわりと流れている。ゆっくりと、地面へ落ちていく。
「ラニア、何とか出来ないの?」
リリアーナが心配そうに聞いた。
ラニアは肩をすくめた。
「発動する前なら、魔力で圧したけれど。こうなるとねぇ」
そう言って、自分の手を見つめる。
指を軽く握って、開く。
「……力が、足りない」
その言葉に、リリアーナは思い出した。
ロキを助けた時。ラニアは傷ついていた。それほどまでに、あの魔道具は強力なのだ。
「熊は、解放したら暴れないのか?」
ラディンが慎重に聞いた。ラニアは少し考え、熊を見た。
縛られ、荒い呼吸をしている巨体。
「少なくとも、僕たちは襲わないよ?」
ラニアはそう言った。
「そう、なのか?」
ラディンは低い声で、聞いた。
「うん」
ラニアは熊を見て、はっきりと言い切った。
ラディンはしばらく黙った。そして、ゆっくりと口を開く。
「力が、あれば何とかなるのか?」
「うーん。多分?」
ラニアは首を傾げた。その曖昧な答えに、ラディンは小さく息を吐いた。
そして、腰の鞄から、布に包まれたものを取り出す。
「実は、島で、科学者達が作ったものだ」
ラニアが目を細める。
「何?」
ラディンは少しだけ苦笑した。
「俺の血で、ラニアが成長したと聞いた者達がな。もう一度試してくれ、と」
「ふうん?」
ラニアはそれをじっと見つめた。
少し首を傾げる。
「何か、違う?」
ラディンは答える。
「俺の血を、培養させてみたらしい。効能は理論上、一緒とか言っていたが」
「面白いね」
ラニアは、あっさりと言った。
ラディンは微妙な顔をした。
「……そうか?」
どう考えても、あまり面白い話ではない。
ラニアは、ふとリリアーナを見た。
リリアーナは、相変わらず熊を見つめている。眉をひそめたまま。刃の縄に食い込まれ、血を流している熊を。
「……」
ラニアは小さく肩をすくめた。
「まあ、試してみるか」
軽い調子でそう言うと、ラディンの手からそれを受け取った。
布に包まれた小さな瓶。
特殊な模様の描かれた布をほどく。
中には、あの、液体が入っていた。
ラニアはそれを少し眺める。
そして、躊躇なく、瓶を口に運んだ。
ごくり、と喉を鳴らす。液体を、すべて飲み干した。空になった瓶を軽く振り、満足そうに息をつく。
その様子を、ローデンはずっと黙って見ていた。
……わけが、わからない。
血だの、培養だの。話の半分も理解できていない。ただ、一つだけ、はっきりと分かったことがあった。
ラニアがそれを飲み干した瞬間。
体が、変わった。ほんの少し。確かに。身長が伸びた。肩や顔つきも、どこか大人びる。
ほんのわずかな変化。だが、見間違えようがない。今のラニアなら、リリアーナの妹だと言われても、誰も疑わないだろう。
ローデンは、ただそれを見ていた。
頭の中では、まだ何一つ整理がついていない。
けれど。その光景だけが、妙にはっきりと心に残っていた。
「……悪く、ないね」
ラニアは小さく呟いた。
体を軽く動かし、指先を開いたり閉じたりする。
そして、ふっと笑ってラディンを見た。
「ラディンって、最高だよね」
唐突な言葉だった。
ラディンは一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに首を振った。
「そんなこと、ない」
短くそう答える。そのやり取りを、ローデンは無言で見ていた。
……あいつが、最高なのか?
胸の奥に、妙な感覚が残る。
理由は分からない。だが、はっきりしていることが一つだけあった。完膚なき敗北感。
なぜだか、そんな感覚が胸に広がっていた。
その間にも、ラニアは動いていた。
瓶に巻かれていた布を取り、くるくると自分の腕へ巻きつける。
布に描かれた特殊な模様が、腕の上で静かに広がる。
そして、ラニアは熊へ近づいた。ゆっくりと。けれど、迷いなく。金色の瞳で、熊を縛る黒い光の縄を見つめる。
そして手を伸ばした。
縄を、掴む。瞬間、刃のついた縄が反応した。
まるで生き物のように蠢き、ラニアの腕へ襲いかかる。鋭い刃が光る。
だが、その瞬間。ラニアの髪が、ぶわりと舞い上がる。
風もないのに。縄はラニアの腕に巻かれた布へと絡みついた。ぐるぐると、何重にも巻き付く。
だが、途中で、力を失ったように落ちた。
ぱさり、と。
黒い縄が地面に落ちる。熊を縛っていた力は、すでに消えていた。熊の体から、完全に解放されていた。
「ふぅ」
ラニアは小さく息を吐いた。ほんの少しだけ疲れたようだった。
熊の縛っていた、縄は消えた。
だが、熊は、動くことはなかった。