作品タイトル不明
静けさの、終わり
春が来た。
長く大地を覆っていた雪がすっかり溶け、土がやわらかく息を吹き返す頃――リリアーナは、誰よりも忙しくなる。
甘甘草の世話をしなければならない。
整然と並ぶ若い苗。まだ頼りない緑の葉は、けれど確かな生命力を宿している。
この作物に必要なのは、土と水だけではない。
魔力。それも、リリアーナのものが求められる。
エドモンドたちも試してみたが、望む結果は得られなかった。だからこそ――この役目は、リリアーナに託されている。
「毎日は、さすがに大変なのだけど……」
誰にともなく呟きながら、両手をそっと苗の上にかざす。淡く、やわらかな魔力が流れ込んでいく。
体の奥がじわりと疲れる感覚。
それでも。ふと脳裏に浮かぶのは、マルグリットの嬉しそうな顔。
収穫を思い描いて目を輝かせる姿を思い出すと、不思議と力が湧いてくる。
……やっぱり、頑張ろう。
小さく息を吸い込み、リリアーナは畑を歩く。
甘甘草を、一株一株、丁寧に見て回る。
葉の色、土の湿り、魔力の馴染み具合。
春の陽射しの下、彼女の影はゆっくりと畝の間を進んでいった。
……中庭の分は終わった。あとは、新しい区画。城壁を抜け、外へ出ると、まだ冷たい風が頬を撫でた。春とはいえ、森の気配はひやりとしている。
リリアーナは、ふと顔を上げた。
ここは、森から結構近い……。木々の影が、思ったよりも濃い。
――甘甘液の木を取りに行きたい。
そうラディンに伝えたときのことを思い出す。
「少し心配があるから、今は駄目だ」
珍しく、きっぱりと止められてしまった。
……今回は、ちゃんとエドモンド様にも報告したのに。むしろエドモンドは、
「行くなら、一緒に」
と、なぜか満面の笑みで答えてくれたのだが。あの笑顔の意味を、リリアーナはまだ理解していない。
小さく首を傾げつつ、足を進める。その後ろを、ラニアとロキがついてきていた。
新しい区画には、すでに畝が整えられている。
去年と同じ大きさで、きっちりとラニア用の区画も用意されていた。
それを見て、ラニアは露骨に顔をしかめる。
「うーん。やっぱり面倒」
心底うんざりした声。リリアーナはくすりと笑った。
「セリウスから、予約されているのでしょ? 頑張って」
ぱっと明るく言い放つ。
ラニアは深いため息をつきながらも、結局は区画の前に立った。
春の陽射しの下、新しい土地が静かに二人を待っている。
森の奥。
芽吹き始めた若葉の陰に、いくつもの影が潜んでいた。息を殺し、じっと様子を窺う。
その視線の先には、城壁の外に広がる新しい区画。土を整える少女たちの姿。
――もう既に、何度も確認している。
あの紫の髪。護衛らしき男が時折そばに立つ。だが、今日は違う。
「……今日は、いないな」
低い声が囁く。
「男達は?」
「見えない」
木々の間から慎重に城の方へ視線を走らせる。人の気配は遠い。
男達は、顔を見合わせて小さく頷いた。
「やるぞ」
「しかし、どちらだ」
「紫の髪が、まさか二人とはな」
想定外だった。標的は一人のはずだった。
並ぶ二つの紫。
「……とりあえず、どっちもか?」
短い沈黙。やがて、決意が固まる。
「いくぞ」
次の瞬間。
茂みを掻き分け、男達は森から飛び出した。
静かな春の空気が、一気に張り詰める。
最初に異変に気づいたのは、ロキだった。
森の奥――風の流れが、わずかに乱れた瞬間。
次の瞬間、鋭く、激しく鳴く。
甲高い警告が、春の空気を切り裂いた。
「ちっ」
森から飛び出した男の一人が舌打ちする。
「急げ」
低い号令。リリアーナとラニアは同時に顔を上げた。見知らぬ男達。ただならぬ気配。
リリアーナの身体が強ばる。喉がひゅっと鳴る。
一方でラニアは、一歩も退かなかった。挑むように、真っ直ぐ男達を見据える。
その瞬間――ロキの身体から、膨大な魔力の圧が解き放たれた。
空気が震える。地面の砂が、びり、と跳ねた。
「なっ……」
男達の顔色が変わる。予想外の圧。
だが――膝を折るほどではない。
歯を食いしばり、踏みとどまる。
「怯むな!」
二手に分かれ、リリアーナとラニアへ接近する。ロキは地を蹴った。一直線に、最も近い男へ飛びかかる。
鋭い牙が、陽光を反射した。