作品タイトル不明
オルフェウスの昔話
エドモンドに「報告、連絡、相談は必ずするように」と延々と説かれた翌日、リリアーナは目に見えて元気がなかった。
まさか、あそこまで絞られるとは……。
思い出すだけで肩が落ちる。ひとつ、深いため息がこぼれた。
ふと視線をやると、すぐそばにロキがいる。何も知らない顔で、こちらを見上げていた。
リリアーナは無言のまま、しゃがみ込むとロキを抱き締めた。
「……ううう」
少し硬い毛並み。けれど、確かにモフモフしている温もり。これを撫でていなければ、やっていられない。
指先で背を梳きながら、ふと疑問が浮かんだ。
――そういえば、どうして城では犬を飼っていなかったのだろう?
その日の午後、リリアーナはエドモンドに尋ねた。
「ねえ。どうして、城では犬を飼っていなかったの?」
エドモンドは書類から目を上げ、少し考える素振りを見せる。
「さあ? 飼いたい、とも思わなかったけど……」
あまりにもあっさりとした答えに、リリアーナは瞬きをする。
そのやり取りを聞いていたラニアが、ぱっと顔を上げた。
「僕、知ってるよ」
にやりとした笑みを浮かべるラニアに、リリアーナとエドモンドの視線が同時に向く。
「どういうこと?」
リリアーナが問いかけると、ラニアは少し得意げに胸を張った。
「昔の話だし、話しても、いいかなぁ」
ラニアはそう言って、エドモンドとリリアーナを見比べた。
そこへ、廊下を通りかかったマルグリットが足を止める。
「何かしら?」
興味を引かれたように、やわらかな声で問いかけた。ラニアは少し声を落とす。
「あのね、オルフェウスが小さい頃、とても大きな犬を飼っていたんだ」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
「え……?」
リリアーナが目を瞬かせる。エドモンドは、わずかに眉をひそめただけで何も言わない。
「年寄りの犬だったけどね。とても賢くて、立派な犬だったんだって。オルフェウスは、いつもその犬と一緒にいたんだ」
……あら、微笑ましい話じゃない。
マルグリットは心の中で思う。幼い主と老犬。なんとも愛らしい情景だ。
けれど、ラニアは続けた。
「でもね。その犬は老衰で死んだんだ」
静かな声だった。
「オルフェウスは、一週間、泣きに泣いたんだ」
誰も言葉を挟めない。
ラニアは少しだけ口元をゆるめる。
「その時、誓ったんだよ。こんなに悲しい気持ちになるなら、もう二度と犬は飼わないって」
沈黙が落ちる。
「……本当は、犬が大好き?」
マルグリットが、呟いた。
その一言に、すべてが腑に落ちる。
ロキが城に来た日。
反対するかと思われたオルフェウスが、意外なほどあっさりと許可を出した理由。
――好きだからこそ、遠ざけていた。
けれど、今度は。
リリアーナは、腕の中のロキを見下ろす。ロキは何も知らない顔で尻尾を振っている。
マルグリットは、ロキの頭をそっと撫でながら言った。
「ロキは、なかなか賢いわね」
その声には、感心と、少しの誇らしさが混じっている。
「そうでしょ? 良い子だよね」
ラニアがすぐに胸を張った。
「少し、試してみたいわね……」
マルグリットが小さく呟いた。
ちょうどそのとき、オルフェウスが廊下をひとり歩いてくるのが見えた。どうやら休憩中らしい。規則正しい足取りで、静かな回廊を進んでくる。
ラニアは素早く皆に目配せをした。
「ロキ、行って」
小声でそう囁く。
物影に身を潜めた一同の視線が、一斉に小さな背中へと注がれた。
ロキはまるで先ほどの会話を理解しているかのように、尻尾をふわりと振ると、ためらいなくオルフェウスのもとへ駆け出した。
軽やかに足元を回り込み、くるりと一周。
そして――ちょこん、と彼の前に座る。
つぶらな瞳で、まっすぐに見上げた。オルフェウスはぴたりと足を止める。
すっと視線を巡らせ、周囲を確認する。その仕草は、さすがと言うべきか、隙がない。
やがてゆっくりと腰を下ろした。
大きな手が、そっとロキの頭に触れる。優しく、丁寧に撫でる。
その瞬間――目尻がふっと下がり、固く結ばれていた口元が、ゆるやかにほどけた。
廊下の空気が、ほんの少し柔らかくなる。
物陰では、誰もが息を呑んでいた。
高鳴る鼓動。祈るような沈黙。心は、ひとつ。
――ロキ、良い仕事した。
誰かが声に出しかけ、しかし飲み込む。
それでもその想いは、全員の胸の中で、確かに一致していた。