作品タイトル不明
魔鳥襲来二日目の夕方
魔鳥襲来、二日目の夕刻だった。
魔鳥の影が空から消え、人々がようやく張り詰めた息を吐き出した、その時――薄闇に紛れるように、城門が叩かれた。
「我々は皇国からの遣いである。こちらにアグネッタ殿が滞在していると伺った。開門をお願いしたい」
その報せを受けたオルフェウスは、思わず眉をひそめた。
戦争の最中にある皇国が、なぜこの地に?
しかも目的は、アグネッタ一人なのか――。
オルフェウスはすぐに、アグネッタ本人に意向を確認した。
差し出された書簡に目を通したアグネッタは、静かに頷く。
「確かに、皇国の正式な印章が押されています。偽りではないでしょう」
門の外に集う使者たちは、決して大人数ではなかった。しかし、その立ち姿から漂う緊張感は、ただ事ではない。
抵抗すれば、周囲の人間を無力化し、アグネッタだけを連れ去ることも厭わない――そんな覚悟が、ありありと感じられた。
遠目に彼らを確認しながら、オルフェウスは歯噛みした。
敵国に、門を開けるなど到底できない。
「師匠……」
リリアーナは、不安を隠しきれない瞳でアグネッタを見つめた。
「……私一人で行きます。決して、門は開けてはなりません」
静かな声だったが、揺らぎはなかった。
「ですが、一人では危険です!」
思わず声を荒げるリリアーナに、アグネッタは穏やかに言った。
「リリアーナ。あなたは、この地を守るのでしょう?」
その言葉に、リリアーナは言葉を失う。
「……すまない」
オルフェウスは、苦渋に満ちた声でそう告げた。
「すぐに殺されることはないでしょう。皇国の目的が、私であるなら」
アグネッタはそう言ったが、リリアーナの胸はざわついた。
――それは、師匠が期待通りの働きを見せなければ、命の保証がないということではないの?
顔色を失ったリリアーナに、アグネッタはそっと視線を向けた。
「私は、あなたの師匠よ。師匠はね、弟子を守る存在なの」
その言葉を最後に、アグネッタは城門へと向かった。
誰にも背を押されることなく、堂々と。
そして――アグネッタは、そのまま城へ戻ることはなかった。
それは、あまりにも突然の出来事だった。
ラニアは「疲れた」と言うなり城へ戻り、そのまま深い眠りに落ちていた。オルフェウスも、リリアーナも、極度の疲労に身も心も擦り切れていた。マルグリットは、皇国という名を聞いただけで青ざめていた。あの時、誰ひとりとして冷静な判断ができていた者はいなかっただろう。
アグネッタ達が門から出た時に、
「アグネッタは、リリアーナのことがとても大切なのね」
ぽつりと、マルグリットが呟いた。
「……最高の、師匠です」
リリアーナは震える声で、そう答えた。言葉にした瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。
薄闇の中、彼らはやがて完全な闇へと溶けていった。
オルフェウスたちは、その影が見えなくなるまで、ただ黙って見送っていた。誰も声を発することができず、引き留める言葉も、追いかける力も残ってはいなかった。
夜の静寂だけが、取り残された者たちを包み込んでいた。
翌朝、リリアーナは、エドモンドとアグネッタのことが頭から離れなかった。
朝食の席についても、気づけば手が止まり、皿の上の料理をぼんやりと見つめてしまう。
……駄目だ。
今は、魔鳥に集中しなくてはならない。
目の前のことを、一つひとつこなすしかないのだ。
リリアーナは唇を強く噛みしめ、意を決したように再び食事に手を伸ばした。
けれど、口に運んだそれの味を感じることはなかった。
その様子を、ラニアは何も言わず、静かに見つめていた。
「リリアーナ、前を見て!」
鋭いラニアの声に、リリアーナははっと意識を引き戻された。
――今、私は……?
視線の先には、翼を広げた魔鳥が迫っていた。距離は、あまりにも近い。
息が、凍りつく。
次の瞬間、ラニアの矢が放たれた。
風を裂いた一矢は、リリアーナの目の前よりわずかに離れた場所で魔鳥を撃ち落とす。地に叩きつけられた魔鳥は、二度と動かなかった。
「……集中できないなら、避難して」
淡々と告げられたラニアの言葉が、胸に突き刺さる。
――考え事をしていた。
こんな時に。
命が懸かっている場で。
自分自身が、信じられなかった。
遅れて押し寄せた恐怖が、身体の奥を駆け巡る。心臓の音がやけに大きく聞こえ、指先が冷たくなる。
「……ごめんなさい」
そう口にしたものの、声は震え、身体も思うように動かなかった。
リリアーナは、ぎゅっと唇を噛みしめると、自分の頬をぱん、と打った。
鈍い痛みが走り、意識が無理やり現実へ引き戻される。
「……やるわ」
弓を強く握りしめる。
震えは、まだ止まらない。
それでも――。
やるのだ。
そうすると、決めたのだから。
空には、まだ魔鳥が舞っている。
魔鳥襲来は、ようやく三日目に入ったばかりだった。