作品タイトル不明
ラニアの弓矢
馬に乗る訓練が始まった。
兵士は穏やかな声で言った。
「馬は賢く、そして人をよく見ています。どうか恐れないでください」
――そんなことを言われても。
リリアーナは心の中で小さくため息をつきつつ、それでも頷き、そっと馬の首筋を撫でた。温かく、思ったよりもしなやかな感触が手のひらに伝わる。
「鞍に乗ったら、身体を馬に預けてください。背筋はまっすぐに」
言われたとおりにしてみると、普段まったく使わない筋肉が悲鳴を上げた。太腿も腰も、じわじわと痛みを訴えてくる。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。一週間という期限が、リリアーナを前へと押していた。
毎日転びそうになりながらも、必死に手綱を握り、背を伸ばし、馬の揺れに身を慣らしていく。恐怖は消えなかったが、それ以上に「間に合わせたい」という思いが勝っていた。
そして一週間後。
兵士は馬の様子を確かめながら、うなずいた。
「まあ、大丈夫でしょう。この馬は矢の職人のもとへ何度も行ったことがあります。道を覚えていますから、任せておけば辿り着きますよ」
「ありがとうございます」
リリアーナは心から礼を述べた。その声には、安堵と決意が滲んでいた。
こうして、リリアーナとラニアは二人きりで馬に乗り、矢の職人のもとへと旅立った。
小さな不安と大きな覚悟を胸に抱きながら、道を知る馬の背に身を委ねて。
馬は本当に賢かった。
リリアーナが手綱を軽く握っているだけで、迷うことなく道を進んでいく。
――すごい……。
心の底から感心しながら、リリアーナは思った。帰ったら、念入りにブラッシングをして、たっぷり餌もあげよう。そう本気で決めるほど、馬の働きは頼もしかった。
ラニアはというと、二人乗りの馬の揺れを楽しんでいるようだった。リリアーナの背にぴたりと身を寄せ、身を任せるその様子は、どこか無邪気で安心しきっている。
やがて、道の先に小さな小屋が見えてきた。
「あ、あそこだよ」
リリアーナがそう言って指さすと、ラニアは目を細めた。
「早かったね」
「え?」
距離は決して近くはなかったはずだ。そう思いながらも、馬の確かな足取りと静かな道行きが、時間の感覚を曖昧にしていたのだろうと、リリアーナは小さく息を吐いた。
こうして二人は、無事に矢の職人の元へと辿り着いたのだった。
職人は小屋の入口に立ち、二人を迎えた。
「よく来たな」
「はい。何とか、一人で馬に乗れるようになりました」
リリアーナは少し誇らしげに答えた。
「出来てるぞ」
そう言って職人は、小屋の片隅に用意してあった弓矢一式をラニアの前に置いた。
「少し、合わせる」
ラニアに弓を持たせ、腕や背の位置を確かめる。
「……まあ、こんなもんだろ」
さすが職人だ、とリリアーナは思った。見た目にも、ラニアの身体にきちんと合っている。
「少し、外で試すか」
職人に促され、三人は小屋の外へ出た。
リリアーナはラニアの前に立ち、丁寧に教える。
「足を少し開いて、姿勢を安定させて。弓は、こう構えて」
ラニアは頷き、矢を放った。
矢は近くの地面に突き刺さる。
「初めてなら、こんなものね」
リリアーナは優しく言った。
二本目は少し遠くへ飛び、三本目は的とはまったく違う方向へ逸れた。
それを見て、リリアーナは頷く。
「ラニア、遅くなるから帰りましょう。馬を連れてくるわ」
そう言って、その場を離れた。
リリアーナの背中が遠ざかるのを見届けてから、ずっと黙っていた職人が口を開いた。
「……どうして、わざと外す」
ラニアは肩をすくめた。
「バレた?」
「真面目にやれ」
「……リリアーナには、内緒だよ」
そう言ってラニアは、もう一度矢を放った。
的の中心をわずかに外しながらも、確かに矢は命中した。
「リリアーナと一緒に、練習したいからね」
ラニアはニヤリと笑い、職人を見上げた。
やがてリリアーナが戻り、二人は弓矢を受け取る。
「ありがとうございました」
リリアーナは深く頭を下げた。
そうして二人は、馬に乗って帰路についた。
……あいつは、一体何者なんだ。
職人は腕を組んだまま、小さくなっていく二人の背を、じっと見つめていた。
職人は小屋へと戻った。
中には、去年追加で運び込まれた魔石や、木の魔物の素材が高く積み上げられている。去年と同じ数の矢――その注文を思い出しながら、彼は無言でそれらを見渡した。
胸の奥に沈んだままの、魔鳥への憎しみは、まだ消えてはいない。
「……作るか」
低く呟き、彼は一人、静かに作業を始めた。
しばらくして、ふと手が止まる。
――ラニア、と呼ばれていたあの子の矢は、どうする?
本当に、あの小さな身体で戦場に立つつもりなのか?
職人は小さく首を振った。
リリアーナもラニアも、ラニアの矢に魔石を付けるようには言わなかった。それはきっと、「必要ない」という意味なのだろう。
帰り際に聞いた、あの無邪気な声が脳裏をよぎる。
『僕の矢も、いっぱいよろしくね』
職人は頭をかき、ため息まじりに呟いた。
「……作ってやるか」
そうして再び、作業台に向き直る。
彼の孤独な時間は、また静かに動き出したのだった。