作品タイトル不明
隣の隣の国
国皇は玉座に身を預け、低い声で問いかけた。
「どこまで進んだ?」
側近は一歩進み出て答える。
「は。すでに軍は国境線を越えたとの報告が入っております」
「ははっ。容易いな」
国皇は喉の奥で嗤った。
「今回は急襲でしたゆえ進軍できました。ですが、これからが正念場かと存じます」
側近は慎重に言葉を選ぶ。
「そうか……。だが、あの国は我が皇国に比べて小さい。時間の問題だ」
国皇は吐き捨てるように言った。
そのとき、兵士が入室し、面会を求める者がいると告げた。名を聞くと、国皇は鷹揚にうなずく。
「通せ」
扉が開き、現れたのは十三番目の皇子だった。
「父上……軍を動かしたというのは、本当なのですか?」
不安を隠しきれない声で皇子は問いかける。
「どうして、そんなことを……」
国皇は鋭い視線を向けた。
「何を言う。お前の婚約者が原因不明の病に倒れ、あの国に貴族名義で親書を送ったこと、知らぬとでも思ったか。自分の名前も、隅に小さく入れたそうだな。長らく返事がなく、ようやく届いたと思えば、断りの一文だけだったとな」
その言葉に、皇子の顔色がさっと青ざめた。
「……どうして、それを……」
「当然だろう?」
国皇は淡々と言い切った。
国皇は十三番目の皇子を溺愛していた。最も愛した、今は亡き側室の忘れ形見――それが彼だった。成長するにつれ、その面差しはますます側室に似ていき、国皇の執着と愛情を、より深いものにしていったのだった。
戦争は、あくまで表向きのものにすぎなかった。国皇の真の狙いは、治癒師――それも、あの国にしかいない力を持つ者だった。
「内偵もすでに放っておる。お前は、ただ待っていればよい」
国皇の言葉に、十三番目の皇子は唇を噛んだ。
「……ですが、それでは国のためにはなりません」
「お前は本当に優しいな」
国皇は小さく笑った。
そして、少しだけ目を細める。
「だが、あの国は最近、少々思い上がっていてな。王が他国に威張り散らし、誰が上かを理解しておらぬ。だから、教えてやる必要があったのだよ」
国皇の脳裏には、先日会った客人の顔が浮かんでいた。
――治癒を頼むなら、王妃に言え、だと?
こちらが下手に出れば、ふんぞり返りおってからに。
客人は、憤りを隠そうともしていなかった。
「まったく、弱小国のくせにな」
皇子の親書の件は、あくまで“きっかけ”のひとつに過ぎない。戦争の理由は、もっと根深く、もっと身勝手なものだった。しかし、その裏側を、誰も知る由はなかった。
十三番目の皇子が心を込めて書いた親書は、王妃の部屋に山積みとなった書簡の中に埋もれていた。
目をしょぼしょぼさせながら一通ずつ目を通していた王妃は、差出人の名を見て首をかしげた。
「……知らない貴族だわ。もう」
そう小さく愚痴をこぼしながら、形式的な断りの返書を書き上げた。小さな名前など、何かしら?位にしか、感じてなかった。まさか、隣の隣の国の13番目の皇子とは、思いもよらなかった。
……それが、ひとつの国を戦火へと導く火種になるとも知らずに。すべては、ほんの小さな行き違いから始まった。
だが、その代償は、あまりにも大きなものになろうとしていた。
国王は青ざめていた。
皇国の強大さは、地図の上で見れば誰の目にも明らかだった。だが、隣の隣の国であるという距離感に甘え、どこかで楽観していた。その判断が、致命的な誤りだったのだ。
「隣国は、一体何をしていたのだ……! 軍隊を素通りさせるなど……密約でも結んだというのか? まさか」
国王は声を荒げたが、思考は混乱したまま、まとまりを欠いていた。
――そう、隣国は皇国と裏で繋がったのだ。
自国への被害を最小限に抑える代わりに、皇国軍の通過を許可する。屈辱的ではあるが、現実的で合理的な選択。どのような結果になっても決して自国には、手を出さないことの約束。……小国が生き延びるために下した、苦渋の決断だった。
その結果、皇国の軍隊はほとんど損耗することなく、国境線を越えた。国王はその事実を前に、ただ唇を噛みしめることしかできなかった。
戦場は、とある広大な草原だった。
国王は重い表情のまま、次々と指示を出す。その草原に近い貴族や部隊を戦地へ送り込み、どうにか戦線を維持するしかなかった。
兵士は消耗品だ。遠くからでも、集めなくてはならない。王城の防衛兵力は必ず残さねばならず、すべてを前線に投入することはできない。寄せ集めの部隊、それが実情だった。
この戦争の最大の目的は、防衛――それも、国そのものを守り抜くことだった。しかし、ひとたび防衛線が破られれば、危機に晒されるのは国王自身だけではない。貴族も、その家族も、領地も、領民も、すべてが失われる。
誰もが胸に疑念と困惑を抱えたまま、それでも命令に従い、戦場へと向かっていった。
草原に吹き抜ける風は過去にないほど強く、これから始まる戦いの過酷さを、無言のまま告げているかのようだった。
エドモンドは、背後からかけられた声に振り向いた。
「まさか、こんなところで会うとはな」
そこに立っていたのは、学生時代の友人だった。騎士科で肩を並べて剣を振るい、共に汗を流した、懐かしい顔。
「本当だな。もっと違う形で再会したかったけどな」
エドモンドはそう言って、苦笑を浮かべた。相手もまた、乾いた笑いを返す。
「……戦場の状況はどうなっている?」
エドモンドは表情を引き締めて問いかけた。
「……良くないな」
友人は短く息を吐いた。
「兵の数が違いすぎる。装備も武器も、向こうが完全に上だ」
「地の利は活かせないのか?」
縋るように問うエドモンドに、友人は首を横に振った。
「今の貴族連中が上に立っている限り、無理だな。作戦も統率もバラバラだ。兵士は、ただ無駄死にしているだけだ」
その言葉に、エドモンドは唇を強く噛みしめた。