作品タイトル不明
オルフェウスの怪我
次の日の朝食の席――。
窓から差し込む柔らかな光の中で、パンとスープの香りが静かに漂っていた。
ラニアがスプーンを手にしながら、ふとリリアーナに尋ねた。
「ねえ。どうしてオルフェウスの怪我を治さないの?」
リリアーナは少し驚いた顔をして、答える。
「もう、怪我をしてから随分時間が過ぎているから……今の状態で固まっていると思うの」
ラニアは首をかしげる。
「試したの?」
「それは……してないけれど……」
言葉が少し弱々しくなる。
ラニアはすぐにオルフェウスの方を向いた。
「ねえ、オルフェウス。腕が動くようになりたい?」
オルフェウスは一瞬黙ったが、静かにうなずいた。
「……なるの、ならばな」
「じゃあ、試してみようか」
ラニアの声は軽やかだった。
そして、ちらりと外を見て言う。
「ここよりは、外がいいかな」
――庭にて。人払いを、先にしておく。
ラニアはオルフェウス、リリアーナ、ラディン、エドモンドと共に屋敷の庭に出た。朝の空気は冷たく、空はまだ淡い色を残している。
「オルフェウス、上の服を脱いで。傷跡を見せてくれる?」
ラニアが楽しげに言うと、オルフェウスは眉をひそめながらも従った。古い傷跡が、左腕を包むように走っている。
「リリアーナ、準備はできてる?」
「ええ……」
リリアーナは小さく息をのむ。緊張が肌に伝わる。
ラニアはくるりと振り返り、ラディンに向かって言った。
「ラディン、借りるね」
そして、彼の腰のナイフをするりと抜き取った。
ラディンが何か言うより早く、ラニアはオルフェウスの古傷へとナイフを走らせた。
「――ぐっ!」
呻くオルフェウス。赤い血が溢れ、古い傷が新しい痛みを取り戻す。
ラニアは深くナイフを突き立てたのち、ざっくりと動かし、すっと抜き取った。
「リリー、治して」
その声に、リリアーナははっとして駆け寄る。
「治って……!」
両手を傷口に押し当てる。
オルフェウスの体が震え、汗が額を流れ落ちる。
リリアーナもまた、額に玉のような汗を浮かべながら、必死に集中した。
空気がぴんと張りつめ、風すら止まったようだった。
やがて――。
「……多分、治りました……」
リリアーナがかすれた声で言った。肩で息をしながら、ほとんど力尽きそうに。
「オルフェウス、動く?」
ラニアが静かに尋ねる。
オルフェウスはふらつきながら、ゆっくりと左腕を持ち上げ……腕が――動いた。
「……動く、だと……?」
その呟きは信じられないというより、夢を見ているようだった。
ラニアは微笑んで言った。
「よく出来たね、リリー」
その言葉を聞いて、リリアーナはその場にへたり込んだ。
「……よかった……」
その声は安堵と疲労が混じっていた。
「……なんで、切ったんだ」
エドモンドが低い声で問いかけた。
その表情には怒りというより、理解不能の戸惑いが浮かんでいた。
ラニアは首をかしげ、まるで当然のことを言うように答えた。
「だって、いびつに固まったところは不要でしょ? 本当はもっと大きく抉り取りたかったんだけど、この身体、力がないから」
そのあっけらかんとした言葉に、周囲の空気が一瞬で凍りつく。
ラディンがため息をつきながら、ラニアの前にしゃがみ込んだ。
「待て。人を勝手に切りつけるのは、良くないぞ」
ラニアは首を傾げる。
「えー、でも笑いながら人を切る人、いたけど?」
ラディンは苦笑しつつも、真剣な目でラニアを見る。
「よく考えてみろ。リリアーナが笑顔でお前を切りつけてきたら、どう思う?」
ラニアの表情が一瞬で変わった。
「……こわい」
「そうだ。だから、人を切るのは、やめような」
ラディンの声は優しかった。
ラニアは俯き、涙をためた目でリリアーナを見上げる。
「リリー、嫌いになった?」
リリアーナは少し驚いたように目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「……嫌いには、なってないわ。ちょっと、驚いたけどね。ただ、ナイフを振り回すのは、良くないと思うよ」
ラニアはほっと息をつき、リリアーナの袖をそっと掴んだ。
その日。夕暮れ時の執務室で、オルフェウスとエドモンドは静かに向かい合っていた。窓の外では橙の光が城壁を照らし、二人の影を長く伸ばしている。
「……古傷の残っている者達」
エドモンドが呟くように言った。
「魔獣との戦いで、腕や脚を失った者、深手を負って治りきらなかった者……。リリアーナの力なら、治せる可能性がある」
オルフェウスは椅子の背にもたれ、腕を組む。
「ならば、その希望を伝えるべきか? 彼女の力で救える者があるのなら」
だが、エドモンドは顔をしかめた。
「……また、あれをやるのか?」
「確かに。あの激痛。再び切り裂かれて……。あの時、正直、死ぬかと思った」
「そんなに……痛かったのか?」とエドモンド。
「“痛かった”どころじゃない」
オルフェウスは腕を押さえ、わずかに震えた指で跡をなぞる。
「あの小さな手で、ぐさっといかれた瞬間、魂が抜けるかと思った。あれを味わったら……間違いなく、発狂する奴が出る」
沈黙が落ちる。
エドモンドは、苦笑のようなため息を漏らした。
「……確かに。彼女とラニアの“治療法”は、医術というより拷問に近いな。欠損は治るか試していないし」
「そういうことだ」
オルフェウスは淡々と頷いた。
「下手に広めれば、希望どころか混乱を招く。……彼女の能力は秘匿としないか。領民には“努力の末に回復した”ことにしよう」
とオルフェウスは言った。
「……それが、いいかもしれない。しかし、ラニアには感謝しないと」
エドモンドは、息を吐く。
「いや、感謝はするが――二度と俺の前ではナイフを持たせないようにしてくれ」
二人の間に、くぐもった笑いがこぼれた。
外では、日が沈みきり、夜の静けさが城を包み込んでいた。