作品タイトル不明
ラニアの世話役
――けれど、その後のことは、まるで白紙のままだった。
「さて……寝る場所を決めないとな」
オルフェウスが腕を組んで言う。
「ぼく、リリーと一緒に寝る!」
ラニアは即答だった。すでにリリアーナの腕にしっかりとしがみつき、離れる気配がまるでない。
「リリアーナはそれで良いのか?」
オルフェウスが少し困ったように問いかける。
「……あの、ベッドから落ちそうなのですが……」
リリアーナは控えめに答えた。
彼女の部屋のベッドは一人用で、確かに二人で寝るには少々狭い。落ちることはそうそうないと思う――だが、子どもの頃の自分を思い出す。あの頃、何度もベッドから転げ落ちて、朝になって床の上で目を覚ましたことを。
……少し、心配だった。
「……客室用のベッドが、まあまあ大きかったはずだ。それを使うか」
オルフェウスが提案する。
「わあ、やった! リリーとずっと一緒だね!」
ラニアは笑顔でリリアーナの腕にぎゅっと抱きついた。
その様子に、誰も異を唱える者はいなかった。
気づけば、自然な流れで――ラニアの世話役は、いつの間にかリリアーナに決まっていた。
そしてリリアーナもまた、ため息をひとつつきながらも、優しくラニアの頭を撫でていた。
オルフェウスはラニアの前に立ち、腕を組んだまま問いかけた。
「リリアーナとは、どんな関係になるんだ?」
ラニアは少し不思議そうに首をかしげ、それから当たり前のように言った。
「リリアーナは、ぼくのお母さんだよ。当然でしょ」
その答えに、部屋の空気が一瞬だけ止まった。
エドモンドが眉をひそめ、慎重に言葉を選ぶ。
「では……ラディンとはどうなんだ?」
ラニアは迷う様子もなく答える。
「ラディンもお母さんだよ。ぼくのお母さんは二人いるんだ」
沈黙。
理解が追いつかない――そんな顔で、オルフェウスがゆっくり口を開いた。
「……お雪様が、父親、ということになるのか?」
「うーん、そうなるのかな?」
ラニアは頬に指を当て、少し考えるような仕草をした。
「ぼくの魔力は精霊に限りなく近いからね」
ラニアは続ける。
「でも、この子の本当の自我は、まだ眠っているんだ。精霊は、本来、長い長い時間をかけて生まれるものだから。この子が目を覚ますまで、ぼくがこの身体を守るんだよ」
エドモンドが小さく息を吐き、確認するように言った。
「つまり……お雪様は、この子の身体を“借りている”ということか」
ラニア――お雪様は軽くうなずく。
「まあ、そんな感じだね」
その瞳はどこか遠くを見ていた。
「その日がいつ来るのかは、わからないけど……」
ラニアの声は、穏やかに、しかしどこか寂しげに、静かな空気の中へと溶けていった。
ラニアが、小さなあくびをした。
その可愛らしい仕草に、場の空気がふっとやわらぐ。
マルグリットが微笑みながら言った。
「子どもなら、昼寝が必要でしょう。……リリアーナ、客室のベッドで寝かしつけられるかしら?」
「はい」
リリアーナは静かに頷き、ラニアの小さな手を取った。
「ラニア、行こう」
ラニアは眠そうな目をこすりながらも、リリアーナに寄り添う。
二人は手を繋いで部屋を後にした。
扉が閉まると、静かな空気が戻る。
エドモンドが腕を組み、ぼそりとつぶやいた。
「……ラニアは、信用していいのか?」
「お雪様なんだ。害はないだろう」
と、オルフェウスが答える。
しかし、マルグリットはゆっくりと首を振った。
「でも……危険な子よ」
その声は低く、どこか確信めいていた。
「やはり、監視が必要か」
オルフェウスの目が、少し険しくなる。
「……あの、俺は帰ってもいいですか?」
ラディンが小さく手を上げて言う。声は控えめだが、明らかに逃げ腰だった。
「待て。まだ“安心”と決めるには早い。もう少し滞在してくれないか?」
エドモンドが真面目な顔で言う。
マルグリットも穏やかに続けた。
「そうね。ラニアは、あなたにも懐いているみたいだわ。もう少し、居てほしいわね」
ラディンは一瞬だけ天井を見上げ、深くため息をついた。
こうして――彼の城での滞在は、もう少し延びることになった。
リリアーナは静かに客室の扉を開けた。
柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中はほんのり温かい。
「さあ、ラニア。ここで休みましょうね」
リリアーナはシーツをめくり、ラニアをそっとベッドに入れる。
「ぼく、知ってるよ」
ラニアが毛布を抱きしめながら言った。
「こういう時、絵本を読んだり、歌を歌ったりするんでしょ?」
期待に満ちた瞳で、まっすぐにリリアーナを見つめてくる。
「絵本は……」
リリアーナは周囲を見回した。客室には装飾こそ整っているが、本棚はなく、絵本など一冊も見当たらない。
「……じゃあ、歌を歌おうか?」
優しく問いかけると、ラニアはぱっと顔を明るくした。
「うん。ぼく、リリアーナの歌、とっても好き」
リリアーナは微笑み、ベッドの傍らに腰を下ろす。
そして、静かに歌いはじめた。
――眠れ、愛しき子よ
風はやさしく、星は見守り、
明日もまた、光の中で笑えますように。
その穏やかな声に包まれながら、ラニアのまぶたはゆっくりと閉じていく。
やがて、静かな寝息が部屋に満ちた。
リリアーナはその寝顔を見つめた。
「おやすみなさい、ラニア」
そっと髪を撫でながら、リリアーナは微笑んだ。
あんなにも辛い日々だったのに、何故か憎めない自分が不思議だった。