作品タイトル不明
■16.聖女をお姫様抱っこした
木陰の下でヴァルディは突如、シェリネに悲鳴を上げながら押し倒された。
何事かと慌てて体勢を入れ替え、彼女に覆い被さって周囲を警戒したのだが。
「全く、ただの毛虫じゃねえか。敵襲かと思っただろ」
「す、すみません……」
どうやらシェリネは、木からぶら下がってきた毛虫に驚いて、縋り付いてきたらしい。
真面目に臨戦態勢を取って損をしたヴァルディは、ぷりぷり怒りながらシェリネの上から退く。逆立っていた尻尾の鱗も元に戻った。
なお、件の毛虫は魔界特有のやけに大きな種類(大根くらいある)なので、シェリネが叫んだのも無理はないのだが、魔界暮らしのヴァルディにその辺の機微は分からないし、神殿暮らしで世間知らずを自認するシェリネも素直に「これが世間のただの毛虫なんだ……」と反省している。
怒られたシェリネがしょんぼりと俯いている間に、ヴァルディはパッパッと火の粉を散らして毛虫を追い払った。今は虫などより重大な問題に向き合わねばならないのだ。
その問題とは。
「まさか、ここまでシェリネに体力がないとはな……」
「うっ、すみません。屋内で完結する人生を送ってきたもので」
さあピクニックだと花畑を目指して家を出発したものの、二十分ほど歩いたところでシェリネが息を切らせてしまったのだ。ただいま道中の木陰で休憩しているところである。
歩くのが遅い上に持続力もないとは本当に脆弱なんだな……と、ヴァルディは呆れを通り越し、いっそ感心していた。
この程度で息を切らし、たかが毛虫でビビり散らかす。こんな野に放てば秒で死にそうな弱い生き物が、本日まで生きていたとは。もはや奇跡である。ああそうか、野に放たれたことのない人生なんだっけ。よし、今後も野に放たないようにしよう。
「目的地のお花畑まで、あとどれくらい歩きますか……?」
「シェリネの移動速度なら、まあ、あと三十分くらい歩けば」
「さんじゅ……っ」
シェリネは悲壮な顔で絶句してしまった。図らずも魔王城の敷地の広大さで捕虜を絶望させた形である。
もちろん建前のほうの目的が叶ったところでヴァルディは嬉しくない。
絶対に口には出さない、否、そもそも自覚がないので口に出しようのないことだが、彼女の笑顔が見たくて外に連れ出しているのだから。
「さ、三十分は言い過ぎた。やっぱり二十九分くらいかも」
ヴァルディは絶望に打ちひしがれるシェリネをどうにか元気づけようとするが、うまい励ましが出てこない。
ふいに同僚が零していた「初デートで女子に長距離歩かせる男とか、あり得ないっていうかぁ」という愚痴が幻聴で再生された。
デートなる単語が何を指すのかは不明だが、女子に長距離を歩かせている事実に変わりはない。シェリネに蔑んだ目で「あり得ないっていうか」と言われる様を想像してみたら、精神に思いのほか甚大な打撃を食らった。
「……捕虜をお花畑へ連れて行くのがヴァルディさんの本日の業務、私が足を引っ張っちゃ駄目だ……ヴァルディさんの基本給上昇のためにも……!」
ヴァルディがどうしたものかと思い悩んでいると、目を閉じて何事かを呟いていたシェリネが、カッと目を見開いた。
「私、まだやれます!」
「! そうか!」
「でもあと三時間ほど休憩をいただきたいです!」
「よーし全くやれそうにないことが分かったぞ」
ヴァルディはシェリネの体力回復待ちを潔く諦め、力技で解決することにした。
歩かせるのが無理なら、歩かせずに移動すればいい。
というわけで、ヴァルディはひょいとシェリネを抱き上げた。
「えっ!?」
唐突にお姫様抱っこをされたシェリネが、素っ頓狂な声を上げる。
「花畑まで俺が運ぶ。これならお前は歩かずに済むだろ」
名案とばかりにドヤ顔のヴァルディ。シェリネの抱え方として、肩に担ぐか横抱きにするかの二択で一瞬悩んだ末、「昼飯食べたあとにお腹を圧迫する姿勢は苦しいかな」という理由で後者を選択した彼に、ロマンチックな思考回路は存在しない。
「あぅ、あのっ、これ、信者のひとり三丁目のトメーヌさんが話してくれた夫との馴れ初めにあった『君は羽のように軽いよ子猫ちゃん』抱っこと同じやつでは……!?」
「誰だよ三丁目のトメーヌ」
一方シェリネは、何か非常にロマンチックな案件を脳裏に浮かべているらしく、ヴァルディの腕の中で慌てふためいている。
「私、お、おも、重たいと思うので、降ろしてください」
「むしろ軽すぎて引いてる」
「あぐぅ」
撃沈したシェリネは真っ赤になった顔を両手で覆って呻いたが、撃沈できた自覚のないヴァルディは前しか見ていないし、シェリネの軽さに割と本気で慄いていた。今後もしっかりとご飯を食べさせねばと固く誓ってすらいる。
「頭のやつ押さえとけよ。飛ぶから」
「は、はい。……とぶ?」
シェリネが素直にベールを押さえつつも小首を傾げると同時に、ヴァルディは地面にビシッと亀裂が走るほど強烈に踏み込み。
「これならすぐ着く」
まるで大砲でも撃ち出したような凄まじい速度で、空に向かって飛び出した。
木陰の下から彼らの姿は瞬時に消え、残されたのはシェリネの「きゃあああー……」という弱々しい悲鳴の余韻だけだった。