作品タイトル不明
52話(番外編 ライナーという男)
王座に就いてからというもの、ザクセン公爵家当主ライナーの表情は、以前にも増して厳しいものとなっていた。
玉座の間で、重苦しい空気の中、彼は一人、地図を前にただひたすら考えを巡らせていた。
彼の頭の中にあるのは国境線だった。
そして、その向こうにある隣国。
「ずいぶんと動きが早いな」
ぽつりと呟いた。
王都を揺るがしたあの反乱を、隣国が見逃すはずはなかった。前王妃たちが追いやられ、国が立て直しを迫られている今なら攻め込める。
そう考えるのが自然だ。
(しかし、ここで戦えば、また多くの血が流れてしまう。散々重税を強いられてきた民や、兵をこれ以上苦しめたくはない)
戦だけは、どうしても避けたかった。
『戦わずに、収める道はないか』
そんな独り言に応えるように、背後から声がかかった。
「ございます」
振り返ると、宰相が頭を下げていた。
彼は、混迷する王都で真っ先にライナーを次期国王に指名した人物だった。
「和平交渉、にございます」
その言葉は短いが、意味は深い。
「……可能なのか?」
「条件次第では」
宰相は続けた。
「ただし、ひとつ問題がございます」
「言ってくれ」
「隣国の言葉を、完全に理解し、正確に交渉できる者が必要にございます」
通訳だけでは足りない。言葉の裏にある意図、つまり微妙な駆け引き、それらを読み取れる者でなければ、和平は成り立たない。
ライナーは額に手を当て、軽く目を閉じ考えた。
「そのような人材が……おるのか」
宰相は、深く頷いてから答えた。
「お一人だけ、心当たりがございます」
宰相は自信あり気に答えた。
「前王太子の婚約者であった、辺境伯家の御息女、エミー様にございます」
その瞬間、ライナーの脳裏に、ふと浮かんだ。
確かあの日、王宮で一瞬だけすれ違った女性。決して華美ではなかったが、何故かとても印象に残っていた。
彼女の静かで、澄んだ眼差し。
(まさかあの時の女性が……)
「エミー様は、貴族学院にて常に首席。特に外国語においては群を抜いております」
だとしたら、それ以上の人材はいないだろう。しかし、
「あの、辺境伯のご息女、か」
ライナーは思わずため息をついた。
「これ以上、無理を強いるわけにはいかない」
今まで散々、王家に振り回されてきた過去。
それを思えば、なおさらだ。
「……慎重に考えねば」
その言葉に、宰相は黙って頭を下げた。
ーーーー
それから数日が経った。
その件は、議会で何度も討議された末、結局マイセン辺境伯家に届けられることとなった。
応接室で、エミーは、母アンジュとともに使者からの話を聞いていた。
「以上が、王のご意向にございます」
使者が丁寧に頭を下げた。部屋には、静かな沈黙が落ちた。
「命令では、ないのですね」
エミーが不思議そうに尋ねた。
「はい。あくまで、ご協力いただけるのであれば、とのことにございます」
その言葉に、母アンジュがわずかに微笑んだ。
「今度の王は……」
無理に従わせるのではなく、こちらにも選択肢を与える。きっとそれが、今の王なのだろう。
エミーはしばらく考え、そして顔を上げた。
「謹んでお受けいたします」
その言葉に迷いはなかった。
使者が思わず目を見開いた。
「本当によろしいのですか」
「はい」
エミーは静かに微笑んだ。そんなエミーに母が少し心配そうに聞いた。
「でもエミー、お父様に相談してからでなくていいの?」
「大丈夫です、お母様。わたくしはただ、これまで学んできたことが誰かの役に立つ。それが何よりも嬉しいのです。もう、それだけで充分なのです」
王都での日々は、決して楽しいものばかりではなかった。寧ろ、辛いことの方が多かった。
だけど、それらが無駄ではなかったのだと、素直にそう思えた。
「立派になったわね、エミー」
アンジュが眩しい眼差しで言うその声には、どこか誇らしさが感じられた。
「いいえ。まだまだですわ、お母様」
エミーは軽く首を振る。
しかし、その瞳には確かな光が見て取れる。
「それでもわたくしは、今度こそ、自分の意思で選べることが、嬉しいのです」
その言葉に、アンジュは優しく頷いた。
かつて強制され、婚約者という役目に囚われていた少女は、今度は自ら選んだ責務を果たすため、堂々と王都へ向かう。その足取りにはもう、迷いなどなかった。
やがてその決断が、いつかの王宮ですれ違った、あの青年との再会へと繋がることを、この時のエミーは、まだ知らなかった。