作品タイトル不明
51話(番外編 帰郷)
王宮は、かつての喧騒が嘘のように静まり返っていた。
あれほど華やかだった広間も、今は人の気配もまばらで、どこか冷え冷えとしていた。
王妃は失脚し、王太子もまたその座を追われた。
そして、新たな王として、玉座に就いたのは、ザクセン公爵家当主、ライナーだった。
彼は、南の過酷な地で民とともに生き、己の手で領地を立て直してきた若き領主でもある。
その名は、すでに王都にも広く知れ渡っていた。
しかし、本人は、豪奢な玉座にも、王宮の華やかさにも、どこか馴染まぬ様子だった。
「……広いな」
ぽつりと呟く。
豪華な王宮の廊下を歩きながら、彼の目はどこか遠くを見ていた。
思い出すのは、あの焼けつくような大地。
汗を流し、土にまみれながら、民とともに畑を耕した日々。
(あちらの方が、よほど落ち着く)
そんなことを考えながら、歩いていたその時だった。
廊下の向こうから、数人の女性たちが歩いてくるのが見えた。
装いこそ控えめだが、彼女たちの立ち居振る舞いは美しく、どこか凛とした気配を纏っていた。
その中の一人とふと、吸い込まれるように目が合った。それはほんの一瞬のこと。しかし、確かに何かが、心の琴線に触れた。
(……今のは)
足を止めかけてしまうほど、強く心を惹かれた。
しかし、現実に引き戻されるのは早かった。
言葉を交わす間もなく、彼女たちはそのまま通り過ぎていった。
結局、二人はその場をすれ違ったまま、振り返ることはなかった。それでも、このすれ違いが、ほんのわずかな余韻を二人の心に残した。
(このような者たちが何故、この王宮にいる? いったい彼女たちは……そういえば、元王太子の婚約者が今日、王宮を去ると聞いていたが、まさか今の女性が……)
ーーーー
一方で、エミーは、王宮の一室で最後の片づけを終えていた。
無理やり結ばれた婚約、そして王妃教育の日々。
今ではすべてが、遠い出来事のように思えた。
「……これで、やっと終わりですわね」
思わずそう呟いていた。そこへ、扉が静かに開いた。
「エミー」
母アンジュだった。その後ろには、兄の妻でもあるシンシアの姿もあった。
「片付けは終わったわね。いつでも出られるわよ」
「はい、お母様」
エミーは静かに頷いた。そして少しだけ、この場所を見渡した。
楽しかった思い出は正直、まったくない。だけど、ここで学んだことは、決して無駄ではなかった。そう信じたかった。そうでなかったらあまりに自分が可哀想に思えてしまう。
(いつか、ここでの学びが、誰かの役に立つ日が来ますように)
そんな願いを、そっと心にしまった。
「参りましょう」
そう言って、歩き出す。
もう振り返ることはなかった。だってここは、自分の居場所ではないのだから。
ーーーー
王宮の外には、すでに馬車が用意されていた。
父エリックと兄アンソニーの姿はそこにはない。
二人はすでに、領地へと向かっている。
隣国との関係が不穏であり、一刻も早く戻る必要があったからだ。
「お父様もお兄様も、本当に慌ただしいですわね」
エミーの言葉を、シンシアが苦笑しながら聞いていた。
「でも、それだけお父様たちが大切な役目を担っているということよ。それにしても、こんなに忙しい時なのに二人して駆けつけるなんて。どれだけエミーのことが好きなのかしらね」
アンジュはそう言って優しく笑った。
エミーは、その言葉に心が温かくなるのを感じた。
華やかさはなくとも、誠実に責務を果たす。そんな辺境伯領こそが、エミーの誇りだった。
(早く帰りたい、その辺境伯領に)
そんな思いを胸に、馬車に乗り込む少し前、ふと、エミーは足を止めた。
なぜだか分からない。ただ胸の奥に、わずかな引っかかりがあった。
(先ほどすれ違った方は誰なのかしら……)
一瞬、脳裏に浮かぶあの時の穏やかな眼差し。
だけどその瞳の奥には、悲しみも潜んでいる、そんな気がした。
でも、すぐに、首を振った。
(いいえ……わたくしにはもう、関係のないことですわね)
母と義姉が待つ、馬車へと乗り込むと、扉が閉まり、ゆっくりと動き出した。
王都が、少しずつ遠ざかっていく。
外に広がる、風景を眺めながら、今までとは少し違う王都の街並みをただ見送った。
新たな時代の始まりを感じながら、エミーは、故郷へと帰っていく。
その後、再びこの王都に足を踏み入れ、自らがその時代を動かす一人になることなど、今のエミーはまだ知る由もなかった。