作品タイトル不明
49話(番外編 王太子の生誕祭)
それから暫くして、王太子の生誕祭の日。
それは、王宮でも最も華やかな催しのひとつだった。
そこには、色とりどりの衣装に身を包んだ貴族たちが集っていた。
音楽が流れ、笑い声が響き渡る。
誰もが、この日の主役に注目していた。
王太子。そして、彼の隣で笑顔を振りまいているのは、婚約者であるはずのエミーではなく、伯爵令嬢マリアナだった。
「まあ、お似合いですこと」
「まるで正妃のようだわ」
ひそひそ話のような言葉があちこちで交わされていた。
それを 咎(とが) める者は誰もいない。
なにしろ、王太子自身が誇らしげにマリアナをエスコートしているのだから、誰も口出しできるはずもなかった。
その一方で、広間の片隅で、静かに佇む令嬢がひとりいた。
エミーだった。彼女は華やかな場であるにもかかわらず、その周囲だけが不思議なほど静かだった。
誰もが彼女の存在に気づいているはずなのに、声をかける者はいない。
そう、王太子の機嫌を損ねたくない。ただそれだけの理由だった。
(まあ、わかっていたことですわ)
エミーはため息をつき、それでも背筋を伸ばした。
逃げることも、俯くこともしなかった。それが、自分にできるただ一つの矜持だから。
その時だった。
「遅くなってすまない、エミー」
低く、よく通る懐かしい声が聞こえた。
振り返ったエミーの目に映ったのは……。
「お父様……?」
マイセン辺境伯エリック。
その隣には、穏やかな微笑みを浮かべた母アンジュ。
そして兄アンソニーと、その妻シンシア。
家族全員が、そこに揃っていた。
「王都に入るのが少し遅れてな」
そう言いながらも、父エリックの視線はすでに広間の中央、王太子へと向けられていた。
穏やかそうでありながら、その視線は鋭い光を放っていた。
「来て、くださったのですね」
思わずこぼれたその声は、いつものエミーらしくなく、わずかに震えていた。
そんなエミーを励ますように、兄アンソニーが答えた。
「当たり前だろう。妹が一人でこんな場所に放っておかれているとわかっていて、黙っていられるほど物分かりが良い方ではないんでね」
「私も同じ気持ちよ」
そう言って、シンシアの瞳にも怒りが滲んでいる。
「ごめんなさいね。少し遅くなってしまったようね」
母アンジュはそっとエミーの手を取った。
その温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
わたくしは、ひとりではない。その事実が、どれほど心強いものか。
「さあ」
エリックが怒りを抑えながら言った。
「我が娘を相手に、これほど『質の悪い余興』を見せられるとはな」
たったその一言で、広間の空気が、ぴたりと張り詰めた。
音楽すら、音を失ったように感じられる。
王太子とマリアナ、そして王妃。
彼らの視線が、一斉にこちらへと向けられる。
それは、静かな戦いの、幕開けだった。
王太子は、ゆっくりと口元を歪めた。
「これはこれは。辺境伯までわざわざ来るとはな」
その声には、わずかな嘲りが混じっていた。
しかし、エリックはそんな言葉などに動じなかった。
むしろ距離を詰め、王太子を睨みつけた。
「娘の婚約者の生誕祭だ。当然のことでは? そうですよね。殿下」
淡々とした答えだったが、それだけで、場の空気はさらに緊張した。
王太子は肩をすくめるようにして笑った。
「はは、そうか。だが見ての通り、今夜は忙しくてな」
ちらりと隣のマリアナを見た。
「エスコートする相手もいる」
その言葉に、周囲の空気が騒めいた。
本来、その位置に立つべきは誰なのか、誰もが知っている。
だからこそ、誰も口にできないでいる。
しかし、その沈黙を、破ったのはエミーの母アンジュだった。
「そのようですわね。見ればわかりますわ」
柔らかな微笑みを浮かべたまま、王太子に向き直る。
「ただ、少し不思議に思いまして。正式な婚約者を差し置いて、別のご令嬢を公の場でエスコートなさるなんて、それが、殿下の学ばれた『王族のマナー』なのですか?」
またも一瞬で、場が凍りついた。
誰もが息を呑む中、マリアナは、わざとらしく小首を 傾(かし) げた。
「あら、そんな風に責められても困ってしまいますわ。殿下はエミー様との会話はつまらない、そう仰って私を望まれたのですもの」
マリアナは、さも愉快そうに貼り付けたような笑みを浮かべた。しかし、その言葉はこの場の空気すら読めていない、あまりに幼く、そして傲慢なものだった。
すると、アンソニーが鼻で笑った。
「つまらない、ね。なるほど。エミーの話を理解できるだけの知性すら、殿下は持ち合わせていらっしゃらないということか。お勉強が大嫌いだと有名なお方ですからね」
その声には、隠そうともしない皮肉が、滲んでいた。
「常識や立場、そして自覚、そのような言葉はご存知ないようですな」
「お兄様」
エミーが、一応の体裁を保つように制止する。しかしその顔には、兄が自分のために怒ってくれていることへの、感謝の気持ちが溢れていた。
すると、周囲の視線が、じわりと王太子たちへと向けられた。
皆から見られている。評価されている。
その事実に、マリアナの笑みがわずかに強張る。
それでも王太子の方は、まったく気づかない。
それどころか、火に油を注いだ。
「大げさだな。たかが一晩のことだろう」
そう軽く言い放ったその瞬間だった。
エリックが、ゆっくりと口を開いた。
「たかが一晩か」
低くいが、よく響き渡る声だった。
「その一晩の振る舞いが、どれほど多くの者に見られているか、殿下はご存じないようだ」
王太子の表情が、わずかに曇る。
「国とは、殿下」
エリックは王太子を睨んだ。
「積み重ねで成り立つものですよ」
それは逃げ場のない言葉だった。
「信頼も礼儀も、積み重ねてこそ意味がある。それを 蔑(ないがし) ろにする者に、国は、預けられぬ」
その一言が、静かに波紋のように広がる。
広間は、完全な沈黙に包まれた。
それにはさすがの、王太子の顔が、歪んだ。
「少々、言い過ぎではないか」
王太子の絞り出すような声だった。
しかし、その言葉には先ほどまでの余裕はなかった。
その時だった。
「もうよろしいでしょう」
いかにも面倒くさそうな声が響いた。
その声は、王妃だった。ゆっくりと近づき、その場を見渡す。
「今宵は祝宴の席。あまり騒がしくするものではありません」
表向きは穏やかだが、その表情は冷たかった。
そしてその目はまっすぐに、エミーへと向けられた。
「それに……立場というものは、自らで守るもの。それさえ守れないのであれば、それまでのことです」
突き放すような言葉を、エミーは冷静に受け止めた。
「……はい」
そして、王妃をまっすぐに見た。
「その通りでございます、王妃様。ですから、わたくしも、わたくしの立場を、守らせていただきます」
その言葉に、再び、空気が張り詰めた。誰もが、その続きを待っている。
エミーはゆっくりと顔を上げ、今度は王太子に向き直った。