作品タイトル不明
第2話 辞退届の署名
「お父様、私は妃候補への推薦を辞退いたします」
言い直しても、父はしばらく返事をしなかった。
執務室の窓から差す春の光が、机に置いた封筒の金の封蝋を明るく照らしていた。昨夜までなら、その輝きを見て胸を弾ませていたのだろうか。もう思い出せない。私には、白塔の石床へこぼれた紫の薬と同じほど、触れてはならないものに見えた。
父は椅子をすすめたが、私は立ったままでいた。座れば、上品な説明を求められる気がした。そして私は、まだ上品に整えて話せるほど落ち着いてはいない。
「理由を聞いてもよいか」
叱る声音ではなかった。むしろ、私が突然高熱を出した時のように慎重な声だった。
「王宮へ上がることが、怖いのか」
正しい問いに近くて、正確には違う。
私は机の端に置かれた母の小さな肖像を見た。薬草園で帽子を押さえながら笑う母は、王宮で褒められることより、乾燥棚に雨が入り込むことを気にする人だった。父が推薦を喜んだのは、母の娘なら王家のそばでも立派に務めると信じたからだろう。
「私は、母の薬草研究を継ぎたいのです」
父の眉がわずかに動いた。
「薬草研究なら、候補になった後でも支援できる。慈善奉仕では役立つだろう」
前の人生でも聞いた言葉だった。候補として施療基金へ配属され、粉薬の箱を点検し、異変を見つけた。役立とうとしたから、記録を奪われた。
その出来事を今ここで話しても、父には理解できない。私自身でさえ、死から目を覚まして半刻しか経っていないのだ。
「誰かに割り当てられた奉仕ではなく、自分の責任で学び、働きたいのです。王立薬草院の助手試験を受けさせてください」
「助手として?」
「はい。公爵家からの名誉職ではなく、任用を受けて給与を得る立場として」
父は目を伏せた。磨かれた机に、白い封筒と父の組んだ手が映っている。
「オフィーリア。推薦を辞退すれば、二度と同じ機会は来ないかもしれない。私が急がせていると思うなら、登録まで日を置いてもよいのだよ」
登録。
その言葉で、胸の内に薄い氷が張った。私は知っている。推薦状は候補の決定通知ではない。父と私が同意し、王宮文書局へ届け出て、初めて私は白百合宮に住む候補となる。
まだ間に合う。
「登録の条件を確認させてください。本人の同意署名が必要なのですね」
父は答える前に家令へ視線を送った。長く公爵家に仕えるグレゴリーは、戸棚から規程の綴りを出して開く。紙をめくる手は落ち着いていたが、私を見る眼差しは朝の挨拶の時より真剣だった。
「妃候補推薦は、推薦状の受領後、令嬢ご本人と家長の同意署名を添えて登録されます。登録前の辞退であれば、ご本人の辞退届と家長確認書を提出する手順でございます」
「辞退に処罰や違約は」
「ございません。もっとも、再推薦の見込みについては保証できません」
私は息を吐いた。白塔の扉へ駆けても開かなかった前の私に、この規程を教えてやりたかった。
「辞退届を作成してください」
父が椅子から立ち上がった。声を荒らげることはなかったが、その顔は笑みを失っている。
「本当に、それが望みなのか。侯爵夫人からは、君は候補の中でも有望だと伺っている。王宮で不安があるなら、私から取り計らうこともできる」
エルンスト侯爵夫人。
耳に入った名が、冷えた薬のように腹の奥へ沈んだ。前の人生で、慈しむように私の手を握り、帳面を預かってくださった人。私の罪を悲しむ顔で白塔への拘束を見送った人。
自分の指が震えているのが分かった。隠そうとして、母の肖像の銀枠へ手を置く。冷たい金属に触れると、今いる場所が白塔ではないと確かめられた。
「侯爵夫人がどのように評価してくださっていても、私の意思は変わりません」
父は、私の手元へ目を落とした。震えを見られたのだろう。理由を説明できないことが申し訳なく、けれど謝れば辞退自体が過ちに見えそうで、私は黙って立っていた。
やがて父は、長く息を吐いた。
「グレゴリー。辞退届と家長確認書を用意しなさい。それから、薬草院の応募期間を調べてくれ」
「承知いたしました」
父は私に近づき、肖像の枠へ置いた私の手を見た。触れようとして、触れずに止める。
「母上の道を選びたいと言うのなら、私はそれを栄誉より低いものとは言わない。ただ、急に手放すには大きすぎる話だ。何か困ったことがあるのなら、いずれは話してほしい」
父の言葉は、私の胸に鋭く刺さるものではなかった。前の私が黙って候補になったのは、父が拒絶を許さない人だったからではない。喜ばせたいと思い、私自身も選ばれることを疑わなかったからだ。
「ありがとうございます。いずれ、きちんと申し上げます」
その約束だけは嘘にしたくなかった。
父は机の引き出しから、母が生前に使っていた小邸の鍵束を一度取り出し、すぐに戻した。何を考えたのかは尋ねなかったが、薬草を学びたいという私の言葉を、気まぐれではなく暮らしの選択として受け止めようとしているのだと感じた。
書記室で作られた辞退届は、驚くほど短い書面だった。
推薦を受けた本人として登録を望まず、辞退する。そこへ氏名と日付を記し、父が家長として意思確認をした旨を添える。それだけで、私を死へ運んだ扉は開かないことになる。
羽根ペンの先に、小さな裂け目があった。インクを含ませると一滴だけ多く落ち、署名の最初の文字の横で黒く滲む。
私はそれを失敗だとは思わなかった。前の人生で書いた端正な同意署名より、ずっと私の字だった。
グレゴリーが砂を振り、書面を乾かす。ミナは少し離れた場所で両手を重ね、何か尋ねたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
「お嬢様、こちらが控えになります。王宮文書局の受領印を得ましたら、あらためてお渡しいたします」
「お願い」
「薬草院についても確認いたしました。春採用の助手試験に、空きが一名ございます」
差し出された募集要項の紙は、王家の封筒より薄く、飾りもなかった。業務内容、勤務時間、必要な基礎知識、実地試験の項目。そこには慈善や品位という美しい言葉の代わりに、乾燥薬草の分類、調薬材の受領記録、温浸試験補助と書かれている。
試験責任者の欄に、ノエル・アシュフォード監督官という署名があった。
私はその名を知らない。けれど、なぜか白塔の扉の外で聞いた声が胸をよぎった。記録を残せと叫んだ、届かなかった声。
同じ人物だと考える根拠はない。私は紙の端を揃えて、応募書へ自分の名を書いた。
「こちらも提出をお願い」
グレゴリーは一礼し、二通の書類を別の封筒へ収めた。辞退届は王宮へ、応募書は薬草院へ。行き先の違う二つの封筒が並んだのを見て、ようやく足元へ床が戻ってきた気がした。
薬草院の応募書には推薦人の欄があった。父は自ら名を書くと言ったが、私は母から学んだ範囲と、正式な勤務経験がないことを追記してもらった。公爵家の名が扉を開くとしても、中で働けるかまで家名に決めさせたくなかった。
ミナがそっと新しい吸い取り紙を差し出す。朝から一度も茶を飲んでいないことを咎める代わりに、小さな水杯も添えてくれた。私はほんの一口飲み、喉が痛まずに水を通すことに気づいた。
その時、門の方角から馬車の音がした。
書記室の扉が控えめに叩かれ、若い従僕が緊張した顔で入ってくる。
「旦那様、お嬢様。王宮文書局の使者がお見えです。推薦について、ご本人の確認を求めておられます」
父が私を見た。
前の人生なら、ここで笑みを整えて迎えたはずだ。
私は滲んだ署名の控えを指先で押さえ、立ち上がった。
「お会いします。私が辞退すると、私の言葉でお伝えいたします」