作品タイトル不明
第1話 白塔の雪
薬杯の底に、紫がかった澱が沈んでいた。
白塔の小部屋には暖炉がない。冬至を明日に控えた夜、窓枠から染み込む冷気は毛布の織り目を抜け、骨まで届くようだった。
私は杯を持ったまま、扉の向こうへ目を向けた。廊下では誰かが番兵に食い下がっている。
「薬包と受領記録を残してください。破棄してはならない」
低く、よく通る男の声だった。
知らない声だ。それなのに、誰かが記録を求めているという事実だけで、ひどく胸が痛んだ。もっと早く、その言葉を聞けていたなら。あるいは、私が最初に見つけた時、帳面を手放さなければ。
思いはまとまらなかった。薬杯から立ちのぼる甘い匂いが、喉へ絡みつく。
これは療養薬ではない。
分かっていた。月白草のやわらかな草の香りに、乾いた根を焦がしたような甘さが混じっている。初夏、施療基金の薬包を開けた時に嗅いだものと同じだった。
あの時、私は王太子妃候補として白百合宮にいた。慈善奉仕に励むのは候補の誉れであり、品位であると教えられ、施療薬に異変があると気づけば、担当のエルンスト侯爵夫人へ真っ先に申し上げるべきだと信じた。
帳面は確認のために預かられたまま戻らなかった。
盛夏の視察で王妃陛下が倒れ、私の器具箱から灰紫根の薬包が見つかったと言われた時、弁明できる記録は手元になかった。私は白塔に入れられ、候補だった者として人前に出せないのだと、薬も手紙も管理された。
白百合宮では、候補を守るためという名目で、出入りする書状も医師の往診も選定委員へ報告された。父から届いたはずの便りは、体調が整えば渡すと言われたきりだった。侍女に薬包の印を確かめたいと頼んでも、侯爵夫人が配慮なさっているのだから休むべきだと、困った顔でなだめられた。
私を閉じ込めていたのは塔の鍵だけではない。王家へ選ばれかけた令嬢が騒ぎを起こしてはならないという、私自身の遠慮だった。
扉の外の声が遠のく。
指に力が入らず、杯が寝台の横の石床へ落ちた。割れるはずの陶器は絨毯の端に当たり、くぐもった音を立てて横倒しになる。こぼれた薬が薄暗い床へ広がり、紫の筋を引いた。
証明してほしい、と声にしたかった。けれど喉は熱く塞がり、呼吸のたびに胸が狭くなった。
雪が窓を叩く音の向こうで、また声がした。
「彼女の記録を、残せ」
最後に覚えているのは、その言葉だった。
目を開くと、窓の外は雪ではなく薄紅色の花びらで明るかった。
胸に手を当てた。痛みはない。吸い込んだ空気には毒の甘さも、湿った石壁の臭いもなかった。代わりに、春の庭へ撒かれた水の匂いと、磨き立てた家具に使う蜜蝋の香りがする。
私の部屋だった。
白百合宮へ移る前、ラングフォード公爵邸で使っていた寝室。窓辺の刺繍台には、昨日縫いかけにしたままの淡青の糸が垂れている。十八歳の春、母を亡くして二年目の私が、もう使わないと思っていた部屋だった。
「お嬢様、お目覚めですか」
扉を叩く声に、指先が跳ねた。
「ミナ……?」
入ってきた侍女は、白塔で最後まで会わせてもらえなかった頃より若い顔をしていた。髪をきっちりとまとめ、腕には朝のドレスを掛けている。私の声がかすれていたからだろう、彼女はすぐにドレスを椅子へ置いた。
「お加減が優れませんか。温かい茶をお持ちしましょうか」
私は首を振りかけて、やめた。寝台脇の小机へ手を伸ばす。そこには銀の盆があり、まだ封を切られていない厚い封筒が載っていた。
乳白色の紙。王家の百合を刻んだ金の封蝋。
息が止まりそうになった。
封筒の下には家令の字で短い覚え書きが添えられていた。
本日早朝、王宮文書局より受領。王太子妃候補推薦状につき、公爵閣下が朝食後にお話ししたいとのこと。
春の朝だった。
候補への推薦状が届いた日。父に栄誉だと言われ、私は母が望んだかもしれない道だと思い、午後には同意署名をした。その署名が、私を白百合宮へ運び、侯爵夫人の管理下へ置き、やがて白塔の薬杯へつながった。
ミナが水差しへ手を伸ばした。私は反射的に身を引き、彼女を驚かせてしまった。
「申し訳ありません。水に何か……」
「違うの。あなたのせいではないわ」
自分の声が、思った以上に震えていた。ミナは問わずに水差しを盆ごと遠ざけ、代わりに窓を少し開けた。庭の風がカーテンを押し、花びらが一枚だけ室内へ滑り込む。
生きている。
そう思うまでに、ずいぶん時間がかかった。胸の奥にあるのは喜びというより、どこへ足を下ろせば床が崩れないのか確かめるような心細さだった。
鏡台の引き出しを開けると、母の喪を明けて間もない頃に選んだ青いリボンが、畳まれたまま入っていた。白百合宮へ持って行かなかった品だ。端をつまむと、長い年月ではなく昨日の埃しか付いていない。私だけが冬を越えて死に、部屋もミナも春の途中に取り残されている。
嬉しいと泣ければ楽だったかもしれない。けれど涙は出なかった。生き直すなら、まず何をしないかを決めなければならない。
「お嬢様、旦那様がお待ちになりますが、先にご朝食を」
「お父様には、すぐ伺うと伝えて」
ミナが心配そうに眉を寄せる。
「お召し替えは」
「このままでいいわ。いえ、上着だけお願い」
寝衣のままでは父をさらに動揺させる。薄い室内着の上から紺色の上着を羽織り、髪を簡単に結んでもらう間も、私は銀盆の封筒を見ていた。
開いてはいけない。
封を切らなければ、まだ私は候補ではない。けれど、前の人生で読んだ内容は一字一句ではなくとも覚えている。王家の栄誉、令嬢の徳、六か月の選定教育。美しい言葉が、細い鎖のように並んでいた。
「こちらは、執務室へお持ちになりますか」
ミナが封筒を取ろうとしたので、私は自分で盆から持ち上げた。紙は驚くほど軽い。白塔で持ち上げられなかった薬杯より、はるかに軽かった。
廊下に出ると、朝の屋敷はいつも通り動いていた。花を替える小間使いが壁際へ下がり、帳場へ向かう書記が会釈する。彼らにとって、私は昨日と同じ公爵令嬢なのだ。
階段の踊り場で、一度足が止まった。
この先で父に逆らえば、落胆させるだろう。母を早くに亡くした父は、私の将来に不足がないよう心を配ってきた。妃候補推薦は、娘が最も尊ばれる場所へ進める知らせとして受け取っているはずだ。
踊り場の窓からは、母が残した薬草園の端が見えた。春の植え替え前で土はまだ寂しく、白い札だけが列になっている。白百合宮へ入る朝、私はあの庭を見下ろし、戻ってきたら母の帳面を整理しようと思っていた。戻れなかった約束が、まだ庭に残されている。
王家の花園で飾られるより、あそこへ降りて土で手袋を汚したい。唐突なほどはっきりした望みだった。
前の私は、その善意を拒めなかった。
だが、善意であっても、私が死ぬ道を選ぶ理由にはならない。
執務室の前で家令が一礼し、扉を開いた。父は窓際の机から立ち上がり、私が持つ封筒を見て穏やかに微笑んだ。
「届いたようだね、オフィーリア。驚いたかもしれないが、これは大変に名誉な推薦だ」
その声に悪意などなかった。だからこそ、私は封筒を強く握りつぶさないよう、指をゆっくり開いた。
机には父が用意した祝いの便箋まで置かれていた。まだ何も決まっていないのに、父の中では喜ばしい未来として形を取り始めていたのだ。
「お父様」
声を出すと、白塔で塞がったはずの喉がきちんと動いた。
私は未開封の推薦状を、父の机へそっと置いた。
「私は、この推薦をお受けしません」
その言葉を口にした私の手には、まだ春の温度が残っていた。
今度は、その温度を失わない。
必ず。
そう決めた。