作品タイトル不明
第12話 署名しない名
署名は文字にすぎないが、薬を飲む人の命まで背負うことがある。
王宮施療基金から届いた緊急検品免除申請書は、慈善書類らしく厚く滑らかな紙に記されていた。上部には基金理事長としてのヴァレリア・エルンスト侯爵夫人の署名と、公印がすでに並んでいる。
申請の内容は簡単だった。
猛暑による需要急増につき、ベレス商会保有の解熱粉末を緊急供給品として扱い、薬草院による通常の抜き取り検査を省略する。薬草院の承認署名に加え、慈善活動に関わる名家の確認として、ラングフォード公爵家の署名欄が設けられていた。
その空白が、やけに白く広く見えた。
書類を読む私の後ろには、院長の許可でリュシーが記録補助として控えていた。彼女は日頃なら紙の端の歪みにも文句を言うのに、今日は音を立てずに受領時刻だけを書き込んでいる。申請書が初めから理事長署名済みで届いたことを、私以外の手が記してくれる。
「わたくしは、皆さまの責任を重くするために来たのではありませんの」
応接室で、ヴァレリアは柔らかな声音を保っていた。先日とは違い、花束を持ってはいない。卓の中央には申請書だけが置かれ、逃れようのないほど整った形で私たちを待っている。
「基金だけの判断では、薬草院の皆さまがご不安でしょう。公爵家の信頼も添えていただければ、施療所も安心して受け取れます」
私は書面を一枚ずつ読み直した。検品を省略した薬に異常があった場合、承認者がどこまで責任を負うのかは、婉曲な文の間に押し込まれている。少なくとも、私の署名があれば「公爵令嬢も安全を認めた」と言うには十分だ。
セルヴァン院長が書面から顔を上げた。
「薬草院は、異常のあった商会の調薬済み粉末を、再鑑定なしに承認できません。代替薬の調合は進んでおります」
「三日を要する案でしょう。既に今日の薬を求めている方々がおります」
「検査自体は、荷が届けば半日でできます」
「全量の安全を、半日で保証できるのですか」
侯爵夫人は院長の言葉へ穏やかに問いを重ね、困窮する患者の姿だけを机へ広げていく。安全を求める側が、いつの間にか現実を知らない側に見える話し方だった。
「オフィーリア様は、分かってくださるでしょう」
私へ向いた声は、昔と変わらず親しげだった。
「お母様も、多くの方へ薬草を分けてくださった方。ラングフォード家が慈善を支えてくださるなら、救われる方が増えます。確認の署名をいただけませんか」
母の名を出されて、腹の奥が冷えた。
母は薬草園で、異常のある葉を惜しんで煎じたことなどない。少しでも傷んだ束があれば、時間をかけて分け直した。「急ぐ人へ渡すものほど、手を抜いてはいけないの」と言っていた。
私は署名欄の前に置かれたペンを取らなかった。
「私の名は、検品を省いた薬の保証には使えません」
侯爵夫人の笑みが静止した。
「保証ではなく、慈善への賛意ですわ」
「受け取る方が、この署名を見て安全だと信じるなら、同じことです。私は署名いたしません」
言い終えると、手袋の中で汗ばんだ指がようやく動いた。
「では、公爵閣下に直接お尋ねすることもできますわ。若い令嬢お一人の判断で、公爵家全体の慈善の名を閉ざすのは惜しいことでしょう」
胸が跳ねた。父は今の不正をまだ十分知らない。公爵家の名誉を重んじる人でもある。けれど、私が父の判断を恐れてここで署名すれば、私自身が再び選択を手放すことになる。
「父へお尋ねになることを、私が妨げる権利はございません。ただし、私の名を記す欄へ署名できるのは私だけです」
院長が強く頷いた。
「薬草院の承認についても同じです。理事長がどなたへ相談なさろうと、鑑定を省いた薬へ私の署名は入りません」
侯爵夫人の表情に、初めて苛立ちに近い影が差した。
ノエルは申請書へ手を触れず、侯爵夫人へ確認した。
「理事長としての申請署名と公印は、既に有効な状態で提出されたものですね」
「ええ。薬草院とラングフォード家に賛同していただければ、速やかに進められます」
「薬草院側が未署名のまま、原本を法務確認へ回します。異常ロット停止中の商会について検品を免除する申請である以上、事故報告との照合が必要です」
侯爵夫人の侍女が、ほんの少し顔色を変えた。書面は説得のためだけではなく、彼女自身の署名を持つ記録になる。
「法務確認などを待っていては、間に合いません。基金には基金の供給手順がございます。薬草院がお受けにならないなら、施療所へ直接搬入することも検討いたします」
院長が椅子の背から身体を離した。
「汚染系列の番号は関係施設へ通達済みです。直接搬入であっても、受領前の確認を求めます」
「現場が、机上の規程ばかりを重く見ないことを願いますわ」
ヴァレリアは立ち上がり、私へ目を向けた。
「残念です、オフィーリア様。選ばれた名家の方には、もっと広い視野を期待しておりました」
前の人生なら、その言葉で自分を恥じた。私は母の名にも公爵家の名にもふさわしくないのだと。
今は、机の白い署名欄を見た。
「私にとっては、薬を受け取る一人の安全も広い視野の内に入ります」
侯爵夫人は何も返さず、応接室を出ていった。
扉が閉じると、院長はため息を一つ吐き、すぐに記録係を呼んだ。
「申請書の原本は封筒に入れ、受領日時と同席者を記録。写しを中央記録庫と王妃府法務室へ送ります。薬草院の署名欄が空白であることも記載してください」
ノエルが私に尋ねる。
「公爵家名義の署名を求められた件について、ご本人の陳述を添えますか。望まないなら、同席者の記録だけでも扱えます」
説明を強いられるのではなく、残すかどうかを尋ねられている。
「添えます。私へ署名を求められ、未検品であるため拒否したと記してください」
「ご自身で文案を確認してから提出します」
申請書は、私たちの署名を得られなかった。それでも理事長の名と印は消えない。正規の紙に残った彼女の判断は、花束の香りより確かなものだった。
リュシーが写しを作る間、私は申請書の欄を一つずつ読み上げた。申請者、対象商会、免除対象の検査、理由、受領を求められた部署。声にすると、上品な文面の中に何が省かれようとしているのかが明らかになる。
「検体採取と温浸確認の省略」
その項目で、リュシーのペンがわずかに止まった。
「私たちが紫を見つけた手順そのものを、外す申請だったのですね」
「ええ。だから残さなければならないの」
言いながら、私は白塔で何も残せなかった自分へ答えているような気がした。
夕刻、王都施療所から短い連絡が届いた。
基金の許可書を携えた荷箱が、薬草院を経ずに向かっているという。
リュシーが停止対象番号の一覧を握りしめた。
「まさか、今日のうちに」
ノエルは外套を取り、院長へ告げた。
「施療所へ向かいます。未開封で止められるなら、立会い採取ができます」
私は明礬紙の箱を手に取った。
「私も参ります。検査を行えます」
院長は一瞬だけ私を見たが、止めなかった。
「では、担当として行きなさい。決して単独で箱へ触れないこと」
ノエルは出発前に、申請書の原本封筒を自分で持ち出すことはせず、法務送付の係へ預けた。私たちが馬車で揺られている間にも、侯爵夫人の署名は別経路で王妃府へ向かう。何か一つが奪われても、全てが消えないように。
薬箱はすでに、患者のいる場所へ向かっていた。
窓の外の街路には、暑さで白く乾いた細かな埃が薄く立っていた。馬車が急ぐほど、胸の内では署名しなかった白い欄が確かな重さを持った。
書かなかった名が、初めて私を守っていた。