作品タイトル不明
第11話 慈善を急ぐ声
薬を止めれば救える命があり、薬が届かなければ苦しむ人もいる。
施療基金の緊急供給会議へ向かう馬車の中で、私はその二つを何度も考えていた。
盛夏の王都は朝から暑く、窓を少し開けても風はぬるい。向かいに座るセルヴァン院長は資料の綴じ紐を確かめ、ノエルは施療所から集めた需要数の一覧を読んでいた。私は膝の上に、代替商会の納入可能量と、薬草院で増やせる検査人員をまとめた紙を置いている。
ベレス商会の薬を拒むだけでは、待っている人を救えない。ヴァレリアにそこを責められることが怖いからではなく、本当に待つ人がいるから、代わりの道を持って会議へ行く必要があった。
出発の前、入庫室へ王都施療所の薬師が訪ねてきた。冷却布と水分補給で持ちこたえられる患者、単材から調薬しなければならない患者を分けた一覧を、夜のうちに作ってきたのだという。紙の端は汗で柔らかくなっていた。
「危険なものを回してほしいとは言いません。ただ、止めた後にどうするのかが見えれば、待っている方にも説明できます」
私は見積書へ、優先調薬の順序を一枚付け加えた。薬を止めた者が責められないためではない。止めた先にいる人を置き去りにしないためだった。
基金会議室の窓はすべて開いていたが、空気は重かった。卓の上には冷却用の水差しが二つ置かれ、書記が額の汗を拭いながら議事紙を整えている。
ヴァレリアは上座の横に座り、私たちへ穏やかな礼をした。
「暑い中、お越しいただき感謝いたします。施療所では昨日から解熱薬を求める方が急増しております。危険を避けることは当然ですが、救済を遅らせれば別の苦しみを生むことも、どうかお考えくださいませ」
その通りだから、厄介だった。
各施療所の責任者が需要数を述べる。幼い子を連れた母親が列を作っていること、備蓄があと二日しかないこと、単材調薬では必要数に追いつかないこと。書記のペンが忙しく走るたび、私の手元の紙が軽く思えてくる。
院長が口を開いた。
「薬草院としても供給の再開は急務と考えます。ただし、汚染が確認された供給系列を、検品なしで患者へ配ることは認められません」
「汚染が確認されたのは、納入された一度分でしょう。ベレス商会には別倉庫の備蓄がございます。同一商会というだけで全品を疑えば、商会も患者も立ちゆきません」
ヴァレリアは悲しむように目を伏せた。
「慈善の責任を担う者として、わたくしは遅延の影響を看過できませんの」
私は卓の下で手を握る。前の人生では、この優しい口調を前に、自分が疑い深く冷たい人間に思えた。今も、その痛みが全くないわけではない。
ノエルが資料を開く。
「別倉庫品が安全であるなら、検品で確認できます。薬草院は追加人員を用意し、通常より短い日程で検査する案を提出します」
彼は私の作成した別紙を、発案者欄が見える形で卓へ置いた。
ヴァレリアの視線が私へ向く。
「ラングフォード公爵令嬢のお考えなのですね」
「はい。王都北区のグレーン薬材店と南区共同乾燥場から、月白草の単材を分納していただける見込みがあります。薬草院の調薬師を二名増員し、施療所の薬師にも確認へ加わっていただけば、三日で優先患者分を整えられます」
書記が顔を上げた。施療所の責任者の一人も、手元の需要数を見ながら身を乗り出す。
「三日で重症分が来るなら、当所の備蓄を乳幼児へ絞れば持ちます。検品を省くより安心です」
別の責任者も頷いた。
会議卓の端で、基金書記が議事紙へその発言を書き留めた。侯爵夫人の説明だけを聞けば、検品を求める側が患者を見捨てているように見える。だが、実際に患者へ向き合う施療所の者が、安全を確認した薬を待つと言った。その声が紙に残ることは大きい。
「代替供給の初便が来るまで、薬草院の単材を一部融通できます」
院長が補足すると、施療所責任者たちは必要量をその場で調整し始めた。慈善は理事長の口から語られる理念ではなく、このような細かな分配で今日をつなぐものなのだ。
ヴァレリアはカップを持ち上げたが、飲まずに戻した。
「費用はどうなりますか。分納と人員増加で、基金の負担が増えるのでしょう」
「追加額はこちらです」
私は見積書を差し出した。そこへ記した額は軽くない。けれど、前年にベレス商会へ支払われていた不自然な差額より少なかった。
「患者へ渡せない薬を納め直すより、必要な検査を含めた代替供給の方が損失を抑えます」
言った後、部屋の空気がわずかに変わった。差額の詳細までは触れていない。だが、薬草院が過去の支払いを見ていることは伝わったはずだ。
侯爵夫人は、なおも穏やかな声で返した。
「若い方の熱意は尊いことですわ。ただ、三日という時間にも苦しむ患者はおります。緊急時には、通常の検品を免除して備蓄を受け入れる申請制度がございます。理事長として、わたくしはその申請を進めるつもりです」
院長の表情が固くなる。
「申請をなさる権限はお持ちです。しかし、薬草院が安全確認なしに受領を承認することはありません」
「承認なさらないために失われる時間の責任も、お考えください」
その言葉は院長へ向けられながら、私にも当たっていた。薬を止めた私のせいで患者が苦しむと、はっきり言わずに告げている。
胸が重くなる。けれど、施療所の責任者が先ほど口にした。検品された薬を待てるよう備蓄を回す、と。私だけが正義を振りかざしているのではない。
「侯爵夫人」
私は声を整えた。
「検品免除で急ぐ薬に再び異常があれば、待つ方々へ取り返しのつかない害を与えます。三日を縮める方法はさらに検討しますが、安全確認をなくす提案には同意できません」
ヴァレリアは、薄く笑った。
「同意を求めたつもりはございません。公爵令嬢が慈善への思いを失われていないことは、よく分かりました」
会議は、薬草院の代替案を併記した上で、理事長が緊急免除申請を提出するという結論で終わった。完全な勝利ではない。それでも、彼女が未検品の再利用だけを急いだことも、私たちが安全な代案を示したことも、議事紙に残る。
会議後、先ほどの施療所責任者が廊下で私たちを呼び止めた。
「基金から直接荷が来る場合にも、止めた箱番号の一覧を送っていただけますか。受領係が替わる時間帯がありますので、掲示しておきたい」
ノエルはすぐに頷いた。
「本日中に全施療所へ送ります。基金許可の有無にかかわらず、一致した箱は開封前に照会してください」
私は、複写帳の案が院の壁を越えるのだと知った。危険を止めるための記録は、棚の中にしまうより、必要な人へ届いて初めて働く。
退出の廊下で、ノエルが私の資料を返してくれた。
「発言を控えさせるべきだったとは思いませんが、負担を掛けました」
「いいえ。席をくださって助かりました。患者のためと言われれば、私自身も揺れますから」
「揺れた上で、代案を出した。十分です」
完璧な慰めではなく、働いた内容をそのまま言われたことがありがたかった。
翌朝、薬草院へ出勤すると、入庫室の卓に厚い書面が置かれていた。
理事長印の押された、緊急検品免除申請書だった。
そしてその送付状には、薬草院の承認だけでなく、私個人の署名を求める旨が丁寧に添えられていた。
昨日、施療所の薬師が汗で柔らかくなった一覧を持ってきた時、私は名家の印など一つも見なかった。あったのは、どの患者へ先に薬を届けるかという迷いと責任だけだった。
この署名欄を埋めれば、私の家名はその迷いを覆う飾りに使われる。私は書面へ触れず、院長へ面会の場に同席したいと申し出た。
院長は、静かに頷いた。
私も頷いた。