作品タイトル不明
第141話 届かなかった手
「そろそろお暇しますね」
「ギルドまで送ろう」
窓から西陽が差し込む時間帯となり、私は暗くなる前に帰ろうと立ち上がった。
ピィちゃんはすっかり慣れ親しんだ外出用のカバンに飛び込み、「ピィッ!」と準備ができたことを教えてくれる。
まだ外は明るいとはいえ、マリウッツさんは行き交う人々を静かに警戒している。
マリウッツさんの家はギルドから程近い場所にあるため、あっという間にギルドが見えてきた。
「すぐそこですし、ここまでで大丈夫ですよ」
「む、そうか」
別れるのは名残惜しいけれど、また明日も会えるもの。
「結び石、本当にありがとうございます。大切にしますね」
私は首から下げた小さな巾着袋を持ち上げてみせる。ちょうど結び石がすっぽり収まるサイズの巾着袋を、マリウッツさんが用意してくれていたのだ。
「ああ、大事にしてくれると嬉しい」
マリウッツさんは愛しむように表情を和らげた。
マリウッツさんのサラサラとした濃紺の髪が、オレンジ色の夕日に照らされて輝いて見える。金色に縁取られた輪郭が、神々しいほどの美しさを放っていて思わず息を呑む。
そうだ、今、伝えられていなかった言葉を伝えよう。
――ううん、伝えたい。
自然とそんな思いが込み上げてきて、私はマリウッツさんをじっと見上げた。
マリウッツさんはどうかしたのかと小首を傾げ、私の言葉を待ってくれている。
とくんとくんと高鳴る胸を押さえて、口を開いたその時――
「ピピィッ!」
「ピィちゃん!?」
カバンの中でピィちゃんがジタバタと暴れて、「プハッ」と顔を覗かせた。
「ちょっと、街中ではじっとしててって言ってるじゃ……どうしたの?」
慌ててカバンに戻るように伝えようとして、ピィちゃんの毛がぶわりと逆立っていることに気がついた。ヴー、と低く唸り声を上げていて、どこかおかしい。
マリウッツさんと顔を見合わせ、ピィちゃんが睨みつける先を確認する。
そこには、フラフラとおぼつかない足取りでこちらに接近してくる人影があった。通行人とぶつかることを厭わず、道ゆく人に怪訝な顔をされているその男性は、あの日マリウッツさんに王子と縋りついた初老の男性だ。
「いつの間に……サチ、下がっていろ」
マリウッツさんは警戒心を露わに、私を後ろ手に隠した。
ゆっくりと近づいてくる男性の様子は、先日会った時よりもさらに不気味なものになっている。
「神を冒涜せし咎人……だが、それもまた都合がいいやもしれん」
ローブから見える目は落ち窪み、ブツブツと何か呟く様子は明らかに常軌を逸している。
マリウッツさんは万一のために帯剣しているけれど、流石に街の往来で剣を抜くわけにもいかず拳を握りしめている。
異様な雰囲気に、なんだなんだと街の人々が遠巻きに見守っている。
マリウッツさんの拳が炸裂することなく穏便に済めばいいのだけれど……
ハラハラと動向を見守っていると、老人がゆるりと顔を上げ、その昏い瞳にマリウッツさんを映した。
「どうか、どうか国にお戻りを」
「くどい。俺は戻らないと言ったはずだ。二度と俺の前に姿を見せるな」
マリウッツさんは男性の言葉を一刀両断する。
声は低く、氷のように冷え切っている。けれど、そんな殺気に満ちたマリウッツさんを前にしても、男性は不気味な笑みを絶やさなかった。
「ふ、ふふ……いえ、あなたに決定権はないのです。国王陛下の御心のままに、お戻りいただきます」
胡乱な目をして薄ら笑みを浮かべた男性は、素早く怪しげに光る球を取り出し、マリウッツさんの足元目掛けて投げつけた。
「チッ!」
マリウッツさんが咄嗟に球に手を伸ばすも、無情にもその手を擦り抜けて球が地面にぶつかり砕け散った。そして、マリウッツさんの足元にブンッと魔法陣が浮かび上がった。
「くっ、サチ、離れろ……!」
「わっ! マリウッツさ……!」
あまりの眩さに目を閉じたと同時に、マリウッツさんにドンッと肩を押された。咄嗟にマリウッツさんに手を伸ばしたけれど、その手は虚しくも空を切る。私はそのまま数歩後ろに後ずさってドスンと尻餅をついてしまった。
「必ず戻――ッ」
プツリとマリウッツさんの声が途絶え、慌てて顔を上げると、もうそこにマリウッツさんの姿はなかった。
その場に残った青白い光の軌跡は、見覚えのあるもので――
「もしかして、【転移】?」
強制的にマリウッツさんは国に連れ戻されてしまったということ?
頭が真っ白になって、全身から血の気が引く。手が震えて身体に力が入らない。
「ピピィッ!」
「はっ! あ、あの人は!?」
カバンから飛び出したピィちゃんに頬を突かれ、ようやく我に帰る。元凶である男性を探すも、彼もすでに姿をくらませていた。同じく【転移】したのかもしれない。
「そ、そんな……」
マリウッツさんが、連れていかれてしまった。
本人が望まぬ帰還。これまでのマリウッツさんの様子だと、今回の帰還要請はきっとマリウッツさんにとっていい話ではない。
もしかすると、マリウッツさんの身に危険が及ぶかもしれない。
マリウッツさんはSランク冒険者で、誰にも負けない強い人。きっと、大丈夫。そう思うし、信じたいけれど、もし、もう二度と会えなくなったとしたら――
頭の中を悪い考えが駆け巡り、視界がぐわんと歪む。
地面が波打っているようで気持ちが悪い。
ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てて軋む。
どうしよう。どうしたら――
「あれ、サチさん? サチさんじゃない!」
「え……?」
その時、ここにいるはずがない人物の声が聞こえ、目を瞬く。
あ、そういえばペンダントをつけたままだったから、偶然このタイミングで【通信】してきたのだろうか。そう思ってペンダントを取り出すも、ペンダントは光っていない。
いよいよ幻聴が聞こえてきたのかと自嘲するが、ポンッと肩を叩かれて弾かれたように顔を上げる。
「う、嘘……」
顔を上げた先には、魔王討伐の旅に出ているはずの梨里杏が心配そうな顔をしてこちらを覗き込んでいた。