軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

8.聖女の第二の涙

深紅のドレスに袖を通しながら、エレノーラは鏡の中の自分を見つめた。

本来、今日の茶会には白いドレスで出席するつもりだった。前世の自分がそうしたように。だが今世の自分は、その「白」が何を意味するかを知っている。

(さあ、始めましょう)

昨夜のマリアの報告が耳に残っている。

「セレスティア様付きの侍女が、白い液体の入った小瓶を隠し持っているのを確認しました」

「茶会の給仕中に、エレノーラ様のドレスへ振りかける手筈だそうです」

前世では見事に成功した罠だった。

白いドレスに白い液体——後から乾いて浮かび上がる黄色い染み。染みに気づいたエレノーラが犯人を問い詰めれば、聖女が涙声でこう訴えるのだ。「エレノーラ様に、私がやったと言いがかりをつけられたんです」と。

あのときは弁明すらさせてもらえなかった。

もう二度と、同じ手は食わない。

王妃主催の昼の茶会。庭園に並ぶ白いテーブルクロスと薔薇の装飾。貴族の令嬢たちが優雅に集う中、エレノーラは深紅のドレスで現れた。

「あら、エレノーラ様。今日は随分と大胆なお色ですのね」

社交辞令の裏に好奇の目。エレノーラは涼やかに微笑んだ。

「ええ。白は少し飽きてしまいまして。今季は深い色が流行りだと聞きましたの」

会場の隅に、あらかじめ頼んでおいた二人の令嬢がいる。彼女たちには「不審な動きをする侍女がいたら教えてほしい」とだけ伝えてある。花瓶事件で名を上げたエレノーラの頼みを、二人は快く引き受けてくれた。

(前世の私には味方がいなかった。でも今は違う)

茶会が始まり、歓談の時間に入る。セレスティアは王妃の近くで楚々と微笑んでいた。完璧な聖女の佇まい。だがその視線が一瞬、エレノーラのドレスに止まるのを見逃さなかった。

——深紅。

聖女の微笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。

それは茶会が半ばに差しかかった頃だった。

給仕の侍女が一人、エレノーラの背後を通り過ぎようとした。その手に、不自然に握りしめられた布——の中に何かがある。

侍女の手が震えていた。

白い液体は、白いドレスなら目立たない。だが深紅のドレスに振りかければ、白い飛沫が誰の目にも明らかに映る。

侍女は立ち止まった。動けない。計画通りの色ではないのだ。

「あら」

エレノーラがゆっくりと振り返った。侍女と目が合う。

「どうかなさいまして? 随分とお顔の色が悪いようですけれど」

侍女の顔が真っ白になった。手の中の布を咄嗟に隠そうとして——テーブルクロスに引っかかり、小瓶が転がり出た。

白い液体が、白いテーブルクロスの上に広がっていく。

会場が、しん、と静まった。

「まあ……これは何かしら」

近くにいた令嬢の一人が声を上げた。エレノーラが事前に頼んでおいた証人だ。

「こちらの侍女が、小瓶を隠し持っていたようですわ。中身は——何かの染料でしょうか」

侍女は震えながら膝をついた。

「ち、違います、これはただの——」

「ただの?」

エレノーラは穏やかに問いかけた。その声には怒りも軽蔑もない。ただ静かな確認。

「ただの何ですか? 給仕中に染料を持ち歩く理由を、教えていただけますか」

侍女は唇を噛み、何も答えられなかった。

ざわめきが広がる。視線が集まる先は——セレスティアだった。

聖女は一瞬だけ蒼白になった。だがすぐに目を潤ませ、小さく首を振る。

「わ、私は何も知りません……。あの侍女が勝手に……まさかそんなことを考えていたなんて……」

涙が頬を伝う。前世なら、この涙に全員が同情しただろう。

だが今は違った。

花瓶事件の記憶がまだ新しい。聖女の涙に、以前ほど令嬢たちの表情が動かない。「また」という空気が、さざ波のように広がっていく。

セレスティアもそれを感じ取ったのだろう。涙を拭う手が、わずかに震えていた。

茶会が終わり、エレノーラは庭園の小道を一人で歩いていた。

深紅のドレスの裾が石畳を掃く。

(これで二回目。あなたの手口はもう通じない)

足を止め、空を見上げる。青い空に白い雲が流れていた。

前世では今頃、白いドレスに身に覚えのない染みをつけられ、弁明もできず孤立を深めていた時期だ。貴族たちの冷笑、聖女の慈愛に満ちた嘘、王子の断罪——全てが一つずつ積み重なって、最後の処刑台へと続いていた。

もうあの道は歩かない。

「エレノーラ様」

振り返ると、マリアが控えめに立っていた。

「お見事でした。あの侍女、既に城の衛兵に引き渡されております」

「そう。……マリア」

「はい」

「ありがとう。あなたの情報がなければ、今日はうまくいかなかった」

マリアは一瞬目を見開き、それからそっと微笑んだ。

「もったいないお言葉です。——それと、もう一つご報告が」

「何?」

「セレスティア様が、茶会の後、大変お怒りだったそうです。部屋に戻ってから花瓶を投げ割ったと」

エレノーラは小さく笑った。

「あら、花瓶がお好きなのね、あの方は」

笑いながらも、背筋が冷えるのを感じていた。

聖女はもう、エレノーラを「格下の相手」とは見ていないだろう。次に仕掛けてくる罠は、小瓶や花瓶では済まない。

(次は——もっと本気で来る)

深紅のドレスの裾を翻し、エレノーラは屋敷へと歩き出した。

風が変わり始めている。それは追い風か、向かい風か——まだ、わからない。