軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

7.侍女の忠誠

その夜、エレノーラは自室の椅子に座り、暖炉の火を見つめていた。

揺れる炎の中に、前の人生の記憶が蘇る。

毒入りの紅茶。喉を焼く痛み。薄れる意識の中で最後に見たのは、震える手でカップを差し出した侍女の顔だった。

マリア。

(あなたを恨んだこともあった。でも、もうそれは終わりにする)

「マリア。少し話があるの。部屋に来てもらえるかしら」

廊下に声をかけると、すぐに足音が近づいた。

栗色の髪を丁寧に結い上げた侍女が、控えめに扉を開ける。

「お呼びでしょうか、お嬢様」

「入って。座ってちょうだい」

マリアが驚いた顔をした。侍女に椅子を勧める主人など、この宮廷にはいない。

「お嬢様、私はお傍に立って——」

「いいから。これは命令よ」

少しだけ強い声で言うと、マリアはおずおずと椅子に腰を下ろした。

膝の上で、手が固く握られている。

(緊張している。当然だ。私が急にこんなことをすれば)

エレノーラは一度、静かに息を整えた。

ここからは、一言も間違えられない。

「マリア。あなたの弟——ルカスくん、でしたわね」

マリアの目が、見開かれた。

「最近、体調がよくないと聞いたわ」

「——っ」

マリアの顔から、血の気が引いた。

唇が震えている。誰にも言っていないはずの、家族の秘密。

「な、なぜ、それを……」

「私にも情報を集める手段はありますの」

嘘だ。知っているのは、前の人生の記憶があるからだ。

マリアの弟ルカスは流行病に侵されている。宮廷医の診察を受けるには、侍女の給金では到底足りない額が必要だった。

前の人生では——聖女がそこに付け込んだ。

治療費を出す代わりに、エレノーラの紅茶に毒を。

「お嬢様、あの、私は——」

「落ち着いて。責めているのではないわ」

マリアの瞳に、涙が滲んでいた。

まだ何も起きていないのに。まだ聖女に買収されてもいないのに。彼女はすでに追い詰められている。弟の命と、自分の忠誠の間で。

(前の人生で、この子がどれほど苦しんだか。私は知っている)

「私が治療費を出しましょう」

マリアが、息を呑んだ。

「王都で一番の医師を紹介するわ。ルカスくんの症状に合った治療を、最初から最後まで」

「お嬢様……」

「費用のことは心配しなくていい。ハーゼンベルク家の名前を使えば、予約も早く取れるはずよ」

マリアの目から、涙がこぼれた。

一滴、二滴。やがて堰を切ったように。

「な、なぜ……なぜ、そこまで……」

「私にも、そこまでしてくださるような……そんな価値は……」

——価値がない。

その言葉を、この子は本気で信じている。

エレノーラは立ち上がり、マリアの前に膝をついた。

侍女が驚いて顔を上げる。主人が、侍女の前に膝をつくなど。

「マリア。よく聞いて」

彼女の手を、そっと取った。

冷たくて、細い手。ずっと働き続けてきた手だった。

「私はあなたを信じたい。だから、先に信じます」

マリアの唇が、わなわなと震えた。

(これは計算だ。聖女より先にマリアを味方につけるための。彼女が買収される未来を潰すための、先手)

(——でも、同時に本心でもある)

前の人生で、エレノーラを殺したのはマリアだ。

けれどマリアもまた、犠牲者だった。弟の命を人質に取られ、選択肢を奪われた。あの震える手は、殺意ではなく絶望で震えていたのだ。

「あなたは一人で抱え込みすぎるの。弟のことも、お金のことも」

「お嬢様……」

「私を頼りなさい。それが——主人としての、私の務めですもの」

マリアが、崩れるように泣いた。

声を殺して、肩を震わせて。エレノーラはただ、その手を握り続けた。

しばらくして、マリアは目元を拭い、深く頭を下げた。

その目には、もう迷いがなかった。

「お嬢様。私は——この命に代えても、お嬢様をお守りいたします」

「命に代えなくていいの。生きて傍にいてちょうだい」

マリアが、また泣きそうな顔で笑った。

「……ひとつ、お嬢様にお伝えしたいことがございます」

声の調子が、変わった。

侍女の顔から涙が消え、真剣な目になっている。

「何かしら」

「実は最近——聖女セレスティア様の侍女が、不審な動きをしております」

エレノーラの背筋が、伸びた。

「セレスティア様の侍女アネットが、夜になると厨房の裏口から外に出ているのを、何度か見かけました」

「厨房の裏口? それは使用人の通用口ではなくて?」

「いいえ。通用口はもっと東側です。裏口は、外部の者と人目を避けて会うのに使われる場所で……」

(聖女が動き出している。やはり、前の人生と同じ流れだ)

前の人生では、聖女は外部の協力者を使ってエレノーラの評判を落とす噂を広めた。その連絡役が、侍女のアネットだった。

「マリア。それは、いつ頃から?」

「十日ほど前からです。最初は気にしていなかったのですが、回数が増えてきて……」

十日前。

花瓶事件の嘘を潰した直後だ。聖女は焦っている。計画が崩れ始めていることに気づいたのだ。

「よく教えてくれたわ。助かります」

「お嬢様のお役に立てるなら、何でもいたします」

マリアの目は、もう泣いていなかった。

そこにあるのは、静かな決意だった。

「マリア。もうひとつだけお願いがあるの」

「何なりと」

「アネットの動きを、もう少し見ていてほしい。誰と会っているのか、何を受け渡しているのか。ただし——絶対に気づかれないように」

マリアが、しっかりと頷いた。

「お任せください」

侍女が部屋を出た後、エレノーラは窓辺に立った。

夜空に月が浮かんでいる。冷たい風が頬を撫でた。

(駒が揃い始めている。クラウスの観察眼、マリアの忠誠。でも——聖女も黙ってはいない)

厨房の裏口。外部の協力者。

前の人生では、その正体を知った時にはもう手遅れだった。

今度は、間に合わせる。

エレノーラは窓を閉め、机に向かった。

引き出しから、数日前に書き写した横領の証拠を取り出す。

聖女の侍女が夜ごと誰かと会っている——その事実は、この証拠と繋がるのか。

まだ、わからない。

けれど確信はあった。

——嵐が、近づいている。