軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

21.資金の行方

深夜の宰相府。クラウスが差し出した一枚の紙を見た瞬間、エレノーラの指が止まった。

「……これは」

「外交文書の写しです。父の書庫から、私の権限で持ち出しました」

クラウスの声は低く、いつになく慎重だった。

謹慎中の身でありながら、書面のやり取りは続いていた。マリアを介した暗号めいた手紙。帳簿の数字を突き合わせる作業。そして今夜——ようやく、二人は同じ部屋に座っている。

「お体は」

「問題ありません。それより、こちらを」

エレノーラは外交文書を受け取り、手元の帳簿と並べた。燭台の灯りの中、二つの書類が淡い金色に染まっている。

(あの教会経由の資金。ようやく、終着点が見える——)

以前、深夜の資料室で二人で見つけた不明な資金の流れ。聖都教会への過剰な寄進金。名目を『修繕費』『慈善基金』『祭事準備金』と分散させた、明らかに不自然な支出。あれから何日も、エレノーラは眠れない夜をこの謎に費やしてきた。

「まずは整理しましょう」

エレノーラは羽根ペンを取り、白紙に図を描き始めた。

「王室直轄領の帳簿から、年に四回、聖都教会に寄進金が支払われています。通常の八倍の額を、名目を変えて」

「教会側の帳簿では?」

「ここが問題なのです。教会に寄進金として入った記録は確認できますが、同額の『布教支援費』が別の名目で出ています。——行き先は、聖都の南にある慈善商会」

クラウスが眼鏡を押し上げた。紺色の瞳が鋭くなる。

「慈善商会。聞いたことがない名前ですね」

「ええ。ですが、この商会の登記を調べました。マリアの伝手で、商業ギルドの記録を」

エレノーラは帳簿の間から、もう一枚の紙を引き抜いた。

「設立者はベルトラン・モーリス。この名前に見覚えはございますか」

「——いえ。ですが」

クラウスの目が、手元の外交文書に落ちた。

長い指がページをめくり、ある一節で止まった。

「ベルトラン・モーリス。エステリア公国の通商代表として、およそ半年前にグランディア王国に入国した記録がある」

「エステリア——」

隣国の名前だった。

エレノーラの脳裏に地図が浮かぶ。グランディア王国の東に位置する小国。表向きは友好関係を保っているが、数十年前に国境紛争があり、今も水面下では緊張が続いている。前世でも、エステリアの名は時折宮廷で囁かれていた。

「通商代表が慈善商会を設立し、聖都教会を経由した資金を受け取っている」

「偶然ではありませんわね」

声が硬くなった。

クラウスが外交文書の別のページを開いた。

「もう一つ。これは父の書庫にあった機密文書です。宰相府が把握している各国の在グランディア外交関係者の一覧」

紺色の瞳がエレノーラを見た。

「ベルトラン・モーリスの名前の横に、符号がついている。『要監視』の印です」

「要監視——つまり」

「宰相府は以前から、この人物がエステリア公国の諜報機関に繋がっている可能性を把握していた」

空気が変わった。

燭台の炎が揺れ、二人の影が壁に大きく伸びた。エレノーラは図を描いていた羽根ペンを握ったまま、動けなくなっていた。

「順を追いましょう」

声を絞り出した。

「王室直轄領から教会へ。教会から慈善商会へ。慈善商会の主はエステリアの諜報関係者。——そしてこの資金の流れが始まったのは」

「聖女セレスティアがグランディアに現れた時期と一致する」

沈黙が落ちた。

エレノーラの頭の中で、三年分の記憶が猛烈な速度で巻き戻される。聖女の登場。第二王子との親密な関係。エレノーラへの陰湿な攻撃。そして前世では——婚約破棄、冤罪、毒殺。

(聖女の目的は——婚約破棄ではなかった?)

指先が冷たくなった。

セレスティア・ミルフィーユ。金色の巻き髪と翡翠の瞳。泣き落としと嘘を武器にする女。

ただの悪女だと思っていた。

エレノーラを陥れ、第二王子の寵愛を独占したい、野心的な女だと。

「クラウス様」

「はい」

「聖女は——エステリア公国の間者ですか」

自分の声が、遠くから聞こえる。

クラウスは答える代わりに、外交文書の最後のページを開いた。

「セレスティア・ミルフィーユの入国記録です。聖女として聖都教会に現れる三ヶ月前——エステリア公国の国境を越えた形跡がある。そして、ベルトラン・モーリスの入国時期とも、ほぼ重なります」

エレノーラの手から羽根ペンが落ちた。

乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。

「……これは、想定外です」

声が震えた。令嬢の仮面が、音を立てて剥がれ落ちていた。

前世の記憶にない。二周目の知識にもない。セレスティアが隣国のスパイだったなど——一度も、考えたことすらなかった。

クラウスが静かにこちらを見ていた。

「初めて、あなたの素の驚きを見ました」

いつもの淡々とした声。けれど眼鏡の奥の瞳には、エレノーラがこれまで見たことのない色が宿っていた。共感とも、畏れともつかない——真実の重さを共有する者の目。

「……前の人生では、何も知らずに死にましたわ」

エレノーラは震える手で羽根ペンを拾い上げた。

「聖女に陥れられ、毒を盛られ、冷たい床の上で——何のために死ぬのかも、わからないまま」

声が途切れた。

あの死は、ただの宮廷劇の犠牲者ではなかった。隣国の陰謀の、使い捨ての駒だった。

「エレノーラ嬢」

クラウスの声が、夜の闇を貫いた。

「聖女の目的が婚約破棄でないとすれば——彼女が本当に狙っているのは」

「……王国の弱体化」

言葉にした瞬間、全身が震えた。

第二王子を傀儡にし、宮廷を混乱させ、有能な人材を排除する。エレノーラの破滅も、横領も、派閥争いも——すべては、グランディア王国そのものを内側から崩すための工作だった。

「規模が違いますわ。わたくしが想定していた戦場とは——まるで、次元が」

「ええ。ですが」

クラウスが立ち上がった。燭台の灯りが銀灰色の髪を照らし、その影が壁に鋭く伸びる。

「敵の正体がわかったことは、前進です。見えない敵より、見える敵のほうが御しやすい」

「……予定通り、とは言えませんわね。今回ばかりは」

「予定通りでなくとも、対応は可能です。——二人なら」

エレノーラは深く息を吸った。

手はまだ震えている。けれど頭の中では、新しい図面が描かれ始めていた。教会への資金。諜報機関との繋がり。セレスティアの正体。——この証拠をどう使うか。

「まずは証拠を固めましょう。そして——聖女の化けの皮を、剥がしますわ」

燭台の蝋燭が一つ、音もなく消えた。

残った灯りの中で、二人の影だけが揺れていた。

前世では知り得なかった真実。

その重さが、エレノーラの肩に静かにのしかかっている。

(王国の弱体化——あの女が狙っていたのは、最初から、この国そのものだった)

窓の外では、夜明けはまだ遠い。