作品タイトル不明
恩赦
永禄五年(1562年) 四月中旬 摂津国島上郡 原村 芥川山城 慶寿院
「お久しゅうございまする。慶寿院様にはお変わりも無く春日、心から嬉しく思いまする」
春日局が深々と一礼して頭を上げました。
「そなたも元気そうで何よりです。良く来てくれましたね」
思いがけない訪ね人ですが歓迎している自分が居ました。ここでは気が塞ぐ事ばかり有るからでしょう。
「先ほど公方様にご挨拶を致しました。若君誕生のお祝いを申し上げました」
「そうですか、輝若丸を見ましたか?」
「はい、公方様に似ていると思いました」
「そうですか」
私が見たのは生まれた直後でした。目鼻立ちははっきりせず義輝に似ているとは思いませんでした。日が経って目鼻立ちがはっきりしてきたのでしょう。でも、見たいとは思いません。見れば辛くなります。
「公方様は喜んでいましたか?」
「はい、大層お喜びでした。今宵、宴を催すとの事で私にも参加するようにとお言葉が有りましたが遠慮致しました」
「それが良いでしょう。辛くなります」
春日局が頷きました。義輝は余程に嬉しいのでしょう。頻繁に宴を催します。最初は哀れと思いましたが最近では愚かなと思うようになりました。
「本当はここに来るつもりは有りませんでした。若君を平静な気持ちで見る勇気が無かったのです」
「でも此処に来ました」
春日局が”はい”と頷きました。
「頭中将様に行かねば後々訝しまれる。立場が悪くなると忠告されました」
そうですね。輝若丸が殺されるのを分かっていたのだろうと疑われるかもしれません。
「辛い思いをさせますね」
春日局が首を横に振りました。
「慶寿院様こそお辛い思いをされているのではございませぬか? 若君に会わないと聞きました」
「さぞかし冷たい祖母だと言われているでしょうね。御台所の子でないから疎んじているのだと。でも見たいと思わないのです。可愛がれませんから」
春日局が深く息を吐きました。可愛がれば情が生じます。それは悲しみが増すだけでしょう。
「頭中将様から慶寿院様へ伝えて欲しいと頼まれた事がございます」
頭中将殿から? 詰まらない事ではないでしょう。一体何を……。
「聞きましょう」
「先日、近衛の邸が賊に襲われました」
「何と! 真ですか」
春日局が”真にございます”と答えました。
「徒党を組んで米を盗もうとしたと言われておりますが真実は畠山の兵だったそうです」
「何と……、御台所を狙ったのですね」
輝若丸が生まれた事で毬が邪魔になったのでしょう。畠山を唆したのは進士だと思いました。
「それだけでは無いと頭中将様は見ております」
「それだけでは無い?」
春日局が頷きました。
「太閤殿下も命を狙われた可能性が有ると」
「兄上も?」
驚いて問い返すと春日局が神妙な表情で頷きました。
「慶寿院様の力を弱める事が出来ましょう」
なるほどと思いました。進士にとって、いえ幕臣達にとって私は邪魔なのだと思いました。私が居ては義輝を思うように操れないと思っているのでしょう。
「公方様は知っているのでしょうか?」
春日局が俯いて首を横に振りました。やはり蚊帳の外ですか……。情けなさも呆れも有りません。やはりという納得がありました。そして何故訊いたのかと自分を責めました。春日局を苦しめるだけなのに……。
「朝廷では二条様達が勅勘の処分を受けましたが宥免を願って色々と動いているようです。幕臣達もそれに絡んでいるのだとか。近衛邸の襲撃はその一つに過ぎませぬ。頭中将様は御身辺に注意をと言っておられました」
有り難い事です。自分も狙われているのに私を気遣ってくれる……。ふと思いました。私が死ねば義輝はどう思うのだろうと……。ホッとするのか、悲しむのか……。
「頭中将殿に私が感謝していたと礼を伝えてください」
「分かりました」
「春日」
春日局が”はい”と答えました。
「寂しい事ですね」
春日局が顔を伏せました。寂しいと思いました。何もかもが寂しいのです……。
永禄五年(1562年)四月中旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
公方の若君誕生で朝廷から祝いの使者を出したんだが随分と手間取ったわ。使者は広橋内府に決まるまでが一苦労だった。内府は四回も辞退した。ポーズじゃないな、本気で嫌がっていた。普通こういうのは三回なんだよ。三回辞退して引き受ける。本意じゃないですよ、嫌々ですよ。という事になるんだが四回なんだから……。俺にまで使者に成りたくないと言うんだから相当追い込まれていたんだろう。俺は参議にもなっていないんだよ。内大臣が愚痴を言う相手じゃないよ。しかしね、現実問題として内府の他に候補者はいない。使者に成っても三好に睨まれない人物は居ないんだ。
帝も困って俺に何とか説得してくれって頼むんだ。右府にやらせろって思ったけど頼りないもんな。内府に”大丈夫です。使者に成っても三好は不快に思いません。太閤殿下も内府の苦しい立場は良くお分かりです”。そう言ってなんとか引き受けさせた。しかしね、こういうのってパパッと終わらせないとトラブルが起きがちなんだ。実際トラブルが起きたらしい。公方の下から戻って来た内府が真っ青になっている。何が有ったんだろ。
「ご苦労であったな、内府。向こうはどうであった?」
帝の問いに内府が”はっ”と畏まった。
「祝いの太刀を渡しますと大層喜んでおじゃりました」
「そうか……」
声が素っ気ない。帝は輝若丸が殺されると知っている。義輝が喜んでいると言われても素直に喜べないよな。
「喜んでいたか。それなら良い。……内府、疲れたであろう。ご苦労で有った。邸に戻ってゆるりと休むが良い」
「はっ、お気遣い有り難うございまする」
内府が頭を下げた。あれ? 終わっちゃうよ。トラブルは無かったの? 俺の勘違い?
内府が”あの”と言い辛そうに声を上げた。うん、やっぱり何か有ったんだ。
「如何した?」
帝が声を掛けると内府がビクッと身体を震わせた。やばいわ、ほんとやばい。
「ば、幕府より恩赦をと……」
消えそうな声だけどはっきり”恩赦”と聞こえた。空気が固まるような感じがした。帝がじっと内府を見ている。太閤殿下も同じだ。
「恩赦?」
やばい、帝の声は明らかに怒っている。皆が顔を伏せて帝と目を合わせないようにしている。顔を上げているのは太閤と俺くらいのものだ。内府の顔が青から白に変わった。周りを見て誰も頼りにならないと思ったのだろう。助けを求めるように俺を見た。だからさ、なんで俺? 溜息が出そうになって慌てて堪えた。”内府”と柔らかく声を掛けた。内府がホッとしたように表情を緩めた。しょうがないよね。説得したのは俺なんだから。
「恩赦と聞きましたがそれはどういう事なのでおじゃりましょう? あちらで何が有ったのか、今少し詳しくお話頂けませぬか? お見受けしたところ帝も、皆様方も意味が分からず困っているようでおじゃりますぞ。麿も良く分からないので困りました」
ほら、話し易いようにしてやったからさっさと話せ。恩赦って何だよ。大体の想像は付くが本当に恩赦なんて言ったのかな。ちょっと半信半疑なんだが。
「ああ、うむ、その、祝いの太刀を渡し終わり帰ろうとした時の事でおじゃります。公方から次の将軍職を継ぐ男子が生まれたのでそれを天下に公表し祝いたい。勅勘を受けた公家達に帝の恩赦を願えぬだろうかと……」
駄目だ、最初は調子良かったんだが最後は声が細くなった。帝が身動ぎもしないで見ているからな。怯えたらしい。
「念のために確認しますが恩赦というのは今回騒動を起こした二条様達の勅勘を赦して欲しいという事でおじゃりますな?」
内府が小さい声で”そうだ”と答えた。それにしても本気で恩赦を願って来たとは……。帝にしてみれば喧嘩を売られたようなものだな。おまけに輝若丸は殺されるんだ。馬鹿じゃないのと思っても不思議じゃ無い。
「なるほど、若君誕生を祝って二条様達に恩赦をと公方から要請が有った。そういう事でおじゃりますな?」
「うむ、そうだ」
「書状を頂きましたか?」
「いや、そのような物はおじゃらぬ」
俺が話すとホッとするらしい。帝よりも俺の方ばかり見ている。しかし書状は無いか。良いねえ。どう受け取るかはこっちの自由という事だな。
「その場には幕臣達も居たと思いますが?」
「うむ、居た」
「彼らは何と?」
内府がちょっと考える素振りを見せた。良い傾向だ。帝に怯えずに済む。
「驚く声が幾つか有ったと思う。しかし大部分は恩赦を望む声でおじゃった」
「なるほど、良く分かりました。お手数をおかけしました」
内府がホッとしたような表情を見せた。あのなあ、未だ終わりじゃ無いぞ。帝も太閤も睨んでいるだろう。
「よろしゅうおじゃりましょうか?」
声を上げると帝が”うむ、許す”と言った。
「お許しを得て申し上げまする。口頭ではおじゃりますが公方だけではなく幕臣達も賛同しているとなれば幕府から正式に恩赦の要請が有ったと判断し朝廷としてどう対処するか、検討するべきかと思いまする」
あらら、皆が顔を見合わせている。そんな変な事言った? 返事をしなきゃ無視という事になる。無視は一番拙いんじゃないの。
「しかし検討と言っても恩赦を与えるか、与えぬかだが……」
「勅勘の処分から一月程におじゃります。恩赦を与えては帝の御威光が……」
「ですが男子誕生となりますと……」
右府、勧修寺権大納言、山科権大納言が歯切れの悪い意見を言った。チラッ、チラッと帝、太閤、俺を見る。俺はともかく残りの二人は機嫌が悪そうだ。まあね、恩赦は帝の面目を潰すよね。それに太閤殿下の顔も潰す。しかも顔を潰すのが義輝なんだから……。そういう事を義輝は分かっているのかな? なんか何も考えて無さそうな気がするんだが……。多分、幕臣達に上手く唆されたんだろう。それに小侍従を喜ばせたい。輝若丸が可愛い。そんな所だろう。あ、皆が俺を見ている。何か言えって事か。
「男子誕生とは言いますが嫡子ではおじゃりませぬ。庶子におじゃります。男子誕生は目出度い事ではおじゃりますが恩赦を与えてまで祝う必要がおじゃりましょうか?」
俺の言葉に皆が顔を見合わせた。ぽかんとしている。言われてみれば……、そんな感じだな。
「しかし頭中将、公方は跡継ぎと……」
右府が困った顔をしている。
「公方は未だ若うおじゃります。これから先幾らでも子が生まれましょう。今回生まれた若君はその中の一人に過ぎませぬ。跡継ぎと言っているのは他に男子が居ないからではおじゃりませぬか? 男子が他にも生まれれば公方の考えも変わるやもしれませぬ。若君は嫡子ではおじゃらぬのです」
皆が頷いた。”なるほど”、”確かに”と声が聞こえた。
「そのように不安定な立場の若君を恩赦で祝う必要がおじゃりましょうか? 麿にはとてもその必要が有るとは思えませぬ。いずれ公方の子が新たな公方になった時、改めて恩赦の事を考えれば良いでしょう。幕府には現時点での恩赦の必要性は認めないと答えるべきかと思いまする」
俺の発言に帝が大きく頷いた。
「道理である。頭中将の意見を採ろうと思うが?」
帝が皆を見回す。異を唱える者は居なかった。
「では内府、今一度公方の所に行って欲しい」
「はっ、明日にでも向かいまする」
内府が情け無さそうな顔をした。まあ、ちょっと同情するよ。向こうは怒り狂うだろうからな。
永禄五年(1562年) 四月中旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 近衛稙家
「そんな事が有ったのですか」
寿が声を上げた。声には非難の色が有ると思った。
「幕臣達が公方様を唆したのね。二条様達に恩赦だなんて近衛に対しての、頭中将殿への嫌がらせ以外の何物でもないわ」
毬の声にも非難の色が溢れていた。二人の非難は頼りにならない公方に対してのものだろう。
「公方様は近衛の事をどう思っているのかしら」
「邪魔だと思っているのよ、姉上。信用出来ないと思っているの。だから近衛を踏み付けにするのよ」
娘達が公方を非難した。儂もそう思う。公方は朝廷に関心を持たない。近衛は無意味な存在なのであろう。
「殿は如何思われますか?」
毬が頭中将に訊ねた。
「麿は近衛に対する嫌がらせだけが狙いとは思わぬ。真の狙いは輝若丸を公方の跡継ぎとするため、そして御台所を幕府から追い出すために行ったのではないかと思う」
娘二人が顔を見合わせた。流石よ、そこに気付いたか……。
「し、庶子では満足、出来ぬか」
頭中将が頷いた。
「どれほど公方が小侍従を寵愛し輝若丸を可愛がろうと今のままでは二人は側室と庶子に過ぎませぬ。しかし朝廷が恩赦を行ったとなれば話が変わりましょう。朝廷は輝若丸を次の将軍と認めたという事になりまする。いわば嫡子も同然。そして小侍従はその母。御台所も同然でおじゃりましょう。となれば御台所の立場は益々弱くなる。有って無きが如し。自ら身を退くようにと追い込もうとしているのだと思いまする」
寿が”酷い”と呟いた。毬は唇を噛みしめている。
「酷いの、じゃが麿も、同意見じゃ」
「公方様もそう考えているのかしら?」
毬が儂と頭中将を見た。さあ、どうであろう。ただ生まれた子が可愛い。小侍従を喜ばせたい。それだけかもしれぬ。幕臣達から恩赦を進められ深く考えもせずに飛びついたとしても儂は驚かぬ。その事を言うと頭中将が頷いた。同意見らしい。頼りない事よ……。
「頼りないのよね」
毬が呟いた。
「あの後、内府から口添えの礼を言われました。その時聞いたのですが内府は何度も断ったそうです。恩赦など受け入れられる筈がないと。しかし公方は諦めなかった。輝若丸の誕生は天下の慶事、朝廷がそれを喜ばないのはどういう事かと。幕臣よりも公方が執拗だったと聞きました」
やはりそうか……。想像が当たっても少しも喜べぬ。娘達も頭中将もうんざりしているのが分かった。
「今回、庶子の誕生は恩赦を与えてまで祝うものに非ず。そういう答えを出しました。公方、幕臣達には分を弁えろと言ったも同然でおじゃりますな」
頭中将が”はははは”と笑った。
「大丈夫ですの? また先日のような事があっては……」
寿が不安そうな表情で頭中将を見た。
「案ずるには及ばぬ。将軍になった時は恩赦を検討すると内府は返答する。頭から否定するわけではおじゃらぬのだ。その事は内府にも念を押して説明してある。直に戦も終わる。そうなれば落ち着くだろう。それまでの辛抱だ」
寿が素直に頷く。落ち着いたものだと思った。毬がうっとりするように頭中将を見ている。頼り甲斐が無いのも困ったものだが頼り甲斐が有り過ぎるのも困ったものだ。どうしたものか……。