作品タイトル不明
口封じ
永禄五年(1562年) 四月上旬 山城国葛野郡 万里小路惟房邸 万里小路惟房
公方に子が産まれた。男子だ、目出度い限りよ。美作守は第十四代様が生まれたと喜んでいような。進士一族の繁栄は間違い無しと思っているに違いない。そうなると邪魔なのが近衛から迎えた御台所よ。そして多くの幕臣達も御台所を邪魔だと思っている筈だ。いや、公方も不仲な御台所など邪魔だと思っていよう。関東制覇の夢は潰えたからの。関白への遠慮は要らぬのだ。
それに近衛は飛鳥井と組んだ。已むを得ずの事だが公方、幕臣達にとっては我慢出来まい。元々公方は御台所を嫌っているのだ。離縁は避けられぬ。太閤も足利との決裂は覚悟していよう。公方を頼れぬと思ったから太閤は娘を頭中将に嫁がせたのだ。むしろ公方が離縁と言い出すのを待っているかもしれぬな。
「ふふふふふ」
思わず笑い声が漏れた。御台所も喜ぶだろう。頭中将に夢中らしいからの。しかし頭中将は姉に取られた。どうするかの?
幕府は反近衛・反飛鳥井になる。そして畠山が成功すれば頭中将、太閤が居なくなる。幕府の力を使って勅勘を解く。三好が負ければ難しくは無い。しかし六角が摂津に踏み込まぬ以上、畠山単独で三好に勝つ事は難しい。”ホウッ”と息を吐いた。
「頭中将、太閤殿下が居なくても勅勘を解くのは難しいか……。いや、無理でおじゃろうな。役に立たぬわ!」
吐き捨てた。
畠山が負ければ三好が京に戻ってこよう。そうなれば勅勘が解ける事は無い……。そして太閤、頭中将が死んだと聞けば関白が戻ってくる。関白は誠仁様を忌諱するだろう。それは誠仁様の未来が閉ざされるという事だ。そして万里小路の未来が閉ざされる事でもある。……やはり寧仁様は邪魔だ。暗殺は出来れば避けたい。危険が多過ぎる。しかし畠山が負ければ消えて貰うしかないだろう。
どうする? 待つか? 寧仁様は未だ幼児、二歳だ。そして誠仁様は十一歳。帝が寧仁様を世継ぎにと考えるまで何年有るだろう? 十年は有るだろう。いや、違うな。誠仁様を世継ぎにしたくないと考えるまで何年有るかだ。誠仁様が成長すれば徐々に次の帝は誠仁様と公家達は思おう。誠仁様に娘を差し出す公家も出るかもしれぬ。それを帝が避けようと考えれば……。三年が限度かもしれぬ。
ドンドンドンドンと足音が近付いてきた。はて、三位宰相か? 姿を見せたのは妹の新大典侍だった。何だ? 顔色が良くない。何が起きた? 畠山が負けたか? 新大典侍が私の前に座った。
「兄上」
声が掠れ震えている。落ち着け! 腹に力を入れた。
「如何した?」
良し、力の有る声が出せた。
「宮中で妙な噂が流れているそうです」
「噂?」
問い返すと新大典侍が頷いた。
「目々典侍の部屋を夜な夜な窺う者が居ると」
「何だ、それは……。まさか、そなた……」
声が掠れた。新大典侍が怯えたように私を見ている。
「このタワケ! 焦るなと言った筈だぞ!」
怒鳴りつけていた。
「ど、毒は渡しておりませぬ。ただ……」
「ただ?」
「隙があるかどうか、探れと命じました」
思わず舌打ちしていた。新大典侍が身体を震わせた。
「愚か者! 寧仁様を殺す機会を窺っていると思われるだけでおじゃろう! その程度の事も分からぬのか!」
「ですが、このままでは……」
オロオロする新大典侍を見て駄目だと思った。新大典侍は誠仁様の事で追い込まれている。冷静に判断する事が出来なくなっている……。
万里小路には三位宰相が居る。私の勅勘が解けなくても万里小路が没落する事は無かろう。しかし新大典侍にとっては息子である誠仁様が全てなのだ。そこを見誤ったわ……。
「余計な事を……」
「毒は渡しておりませぬ」
「そんな物は幾らでもでっち上げられよう。そう思わぬのか」
新大典侍が項垂れた。
「他にも噂が出ているそうです」
「何だと?」
「帝のお命も危ういと」
馬鹿な、帝のお命だと……。まさか……。
「そなた、帝の寝所も探らせたのか?」
声が震えた。新大典侍が激しく首を横に振った。
新大典侍は探らせていない。つまりこの噂は故意に誰かが流したと見て良い。その誰かは頭中将だろう。頭中将は養母の部屋を何者かが探っていると気付いたのだ。多分万里小路だとも気付いただろう。だから帝と結び付ける事で話を大きくした……。いや、実際に帝が亡くなれば後を継ぐのは誠仁様だろう。一気に状況が変わるのは間違いない。つまり有り得るという事か。頭中将は我らがそう考えたと判断した。いや、周囲にそう思わせようとしているのかもしれぬ。危険だと思った。
「如何しましょう?」
新大典侍が不安そうにこちらを見ている。その事が腹立たしかった。余計な事を……。
「動くな」
「ですが」
「動くなと言った! 聞こえなかったのか!」
新大典侍が押し黙った。未だ分からぬのか……。
「公家達は万里小路を注視していよう。下手に動けば益々追い込まれるぞ。動いてはならぬ。詰まらぬ噂で終わらせるのだ」
「分かりました」
新大典侍が頷いた。
「寧仁様の事もだ。決して動いてはならぬ」
「登米にそう伝えまする」
登米に?
「待て、文での報せではないのか? 登米がここに来ているのか?」
「大事ですので登米が自ら……」
「愚か者!」
我慢出来ずに怒鳴りつけていた。新大典侍の目が点になっている。
「登米がここに来れば暗殺の計画が漏れて慌ててこちらに相談に来たと思われるとは考えぬのか!」
新大典侍がハッとしたように目を見開いた。
「確かに、その通りにございます」
「直ぐに戻らせろ。当分、此処には来るなと言え。文も要らぬとな」
「当分とは?」
「……一月だ、五月の半ばまでは一切何もするなと伝えよ」
「はい」
新大典侍がそそくさと立ち去った。殺した方が良かったか? だが登米が殺されれば佐奈が怯えよう。それに登米は口封じに殺されたと公家達に思われるのも拙い。やはり戻すしか無い。溜息が出た。
「手強いわ」
口中が苦い。振り回されていると思った。
永禄五年(1562年)四月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 勾当内侍
「登米は随分と慌てて出て行ったそうです」
私の言葉に頭中将様が”左様でおじゃりますか”と頷きました。
「もう一人は? 佐奈という名の女官でおじゃりますが」
「佐奈は常の通り、仕事をしております。ただ、登米が外に出る前に二人は深刻な表情で話し合っていたそうです」
頭中将様が息を吐きました。沈痛な表情をしています。厄介な事になったと思っているのでしょう。
「養母の部屋を探ったのは二人の独断では無いという事になりますね」
「ええ、裏に居るのは新大典侍殿でしょう。権大納言様も絡んでいるかもしれません」
二条様も絡んでいるかもしれません。
「愚かな事を……。何故誠仁様の事を考えないのか。誠仁様を守るために自発的に宮中を下がったという事にしたのに……」
やはりそうでしたか。新大典侍はあの一件に関与していました。頭中将様は誠仁様のお立場を守るためにその事実を伏せたのでしょう。多分、帝の御意向が有ったに違いありません。
「今頃は権大納言様、新大典侍殿と善後策を考えておりましょう」
私の言葉に頭中将様が”そうですね”と頷きました。
「権大納言様、新大典侍殿も驚いていると思います。どうしてこうなったと登米を問い詰めているかもしれませぬ」
「では狙いはやはり寧仁様?」
頭中将様が”おそらく”と頷きました。
「あの二人が探っていたのは養母の部屋です。帝の周辺を探った形跡はおじゃりませぬ。小番の方々に確認しました」
なるほどと思いました。敢えて話を大きくする事で慌てさせたのでしょう。
「愚かな事です。寧仁様のお命を奪っても勅勘が解かれる事はおじゃりませぬ。むしろ帝に嫌悪されるだけでおじゃりましょう。誠仁様のお立場が強まったようにも見えますが帝は誠仁様を危惧すると思います。他に男皇子が生まれれば帝はその皇子を後継者にと考えかねない。となればです。誠仁様の力で宥免をと考えていた方々は目論見が外れる事になる。そうなればやはり帝のお命をと考える事になります」
溜息が出ました。なんとおぞましいのか……。
「如何なさいます? 登米が帰ってきたら二人を捕らえますか?」
私の問いに頭中将様が首を横に振りました。
「証拠がおじゃりませぬ。毒が有れば罪を問えます。新大典侍殿、権大納言様も罪に問えましょう。しかしその場合は誠仁様のお立場にも差し障りが生じます。それは避けなければ……。寧仁様は未だ二歳でおじゃります。無事に育つという保証はおじゃりませぬ」
「帝がそのように?」
「はい。麿も道理だと思います」
なるほどと思いました。一昨日、頭中将様は深夜に帝に拝謁しました。その事を話し合ったのでしょう。帝は皇統を安全に繋ぐためには誠仁様を排除出来ないと考えています。それだけに新大典侍、権大納言様への不快感は募るでしょう。そして帝の思いに応える頭中将様への御信任は強まります。
「それに、もしかすると登米は戻らぬかもしれませぬ」
「それは?」
問い掛けると頭中将様が一つ息を吐きました。
「麿が権大納言様なら登米が生きて此処に戻る事はおじゃりませぬ」
思わず頭中将様を凝視しました。殺すと?
「ですが佐奈が……」
それ以上は言えませんでした。頭中将様が笑みを浮かべて私を見ています。
「登米が戻らない。佐奈は不安に思うでしょう。文で問い合わせるか、自ら赴くか……。自ら赴くなら話は早い。登米の後を追わせるだけでおじゃります。文で問い合わせるなら登米は来ていないと返事をして呼び寄せれば良い」
死人に口無し。口封じですか……。
「それでは有耶無耶になりますが」
問い掛けると頭中将様が頷きました。
「そうですね、新大典侍殿達を罪に問えなくなる。ですが有耶無耶で構いませぬ。誠仁様を守るにはその方が良い。それにあの二人は殺されたと誰でも想像が付きます。新大典侍殿のために動くのは危険だと皆が認識するでしょう。そうなれば新大典侍殿も動けなくなります」
なるほど、誠仁様を守るためには有耶無耶で十分ですか。その分だけ新大典侍の立場は悪くなると頭中将様は見ています。
頼りになると思いました。私の目の前の座る頭中将様は未だ十四歳です。身体も決して大きくはありません。ですがこうして対峙しているといつの間にか頭中将様を頼っています。それほどまでに頼り甲斐があるのです。やはり後宮を押さえるには頭中将様の力が必要です。この大事、持明院権中納言様と藤典侍ではとても捌けないでしょう。
「となると問題は戻った時ですが……」
頭中将様の表情が曇りました。
「その時は二人を宮中から追い出すしかおじゃりませぬ。そのくらいしか……」
頭中将様が首を横に振りました。そうですね、そのくらいしか手が有りません。
「この件ですが藤典侍には何時教えますか? 何も報せないわけには行かないと思いますが……」
頭中将様が一つ息を吐きました。
「登米が戻るようなら直ぐに伝えなければなりません。そして二人を宮中から追い出す。ですが登米が戻らぬようなら……」
「如何します?」
頭中将様が私をじっと見ました。
「佐奈をこちらに引き寄せようと思います」
佐奈を引き寄せる?
「登米は殺されたと教えれば……」
「なるほど、新大典侍殿からは離れましょう」
頭中将様が頷きました。
「その後は勾当内侍殿にお預けします」
「私に? 宜しいのですか?」
「ええ、藤典侍にはいささか荷が重いでしょう。養母の傍にも置きたく有りませぬ」
なるほど、他に人が居ないという事ですね。
「分かりました。私が預かりまする」
「よろしくお願い致します」
頭中将様が頭を下げました。望むところです。頭中将様との関係をより強める事が出来るでしょう。
永禄五年(1562年)四月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「叔母上、大丈夫でおじゃりますか?」
甥の新蔵人飛鳥井雅敦が心配そうに私を見ている。
「大丈夫ですよ。私も、寧仁様も」
「それなら良いのですが……。叔母上、気を付けて下さい、決して油断してはなりませぬぞ。相手は余程の覚悟です」
「ええ」
新蔵人が息を吐いた。相当に心配しているのだと思った。
宮中において寧仁様と帝のお命を奪おうとしている者が居るという噂が流れた。驚いて松と梅にそのような事実が有るのかと問うとこの部屋を窺う者が居ると教えてくれた。既に頭中将にも伝えていると……。もしかするとこの噂は頭中将が流したものなのかもしれない。一体どんな狙いが有るのか……。
「新大典侍殿も諦めが悪い。いい加減負けを認めれば良いものを」
新蔵人が嫌悪を露わにして言った。
「やはり新大典侍殿なのですか?」
問い掛けると新蔵人が”多分”と頷いた。
「はっきりとは分かりませぬ。ですが寧仁様のお命を狙うのです。他に居るとは思えませぬ。蔵人所でも新大典侍殿の関与を疑う者はおじゃりませぬ」
「では新大典侍殿が帝のお命も狙っていると?」
新蔵人が厳しい表情で頷いた。
「帝に万一の事が有れば次の帝は誠仁様でおじゃりましょう。寧仁様では幼過ぎます」
小声だったが耳に響いた。
「それに帝は勅勘に処した方々を許すお考えは無いようです。その事に気付いたのだとしたら……」
新蔵人が分かるだろうというように私を見た。
「そういう事ですか」
新蔵人が”ええ”と頷いた。なるほど、十分に有り得る。寧仁様よりも帝の方が危ないのだと思った。
「頭中将殿はなんと?」
「困った事だと言っておじゃります。頭中将は動けぬようです。下手な事をすると誠仁様のお立場も危うくなりかねませぬ。そんな事になれば頭中将は寧仁様を帝にするために故意に誠仁様のお立場を危うくしたと誹られましょう。帝の御信任も失いかねませぬ」
「……」
「万里小路三位宰相とも良く話をしています。三位宰相は権大納言様や新大典侍殿とは不仲です。誠仁様のお立場を心配しています。どうすれば良いのかと話し合っているのだと思います」
「……」
「それにここ最近太閤殿下は宮中に参内致しませぬ。どうもお身体の具合が良くないようです。客が来ても面会を謝絶しているのだとか。その事も頭中将を悩ませておじゃります。殿下がお元気なら相談出来るのでしょうが……」
新蔵人が息を吐いた。太閤殿下のお身体は良くないのだろうか? 春齢からは頭中将がしばらく近衛に留まると文が来たけど……。
「戦も未だ決着が付きませぬ」
「頭中将殿は三好が有利だと言っていますよ」
新蔵人が頷いた。
「早く勝って貰いたいですよ、叔母上。三好が畠山に勝てば妙な動きも治まるでしょう。皆も安心出来る。今は落ち着きませぬ」
「そうですね」
新蔵人の不安そうな表情に胸が痛んだ。一体何時までこんな日が続くのか……。