軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

茶番

永禄五年(1562年) 四月上旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 飛鳥井寿

「兄上にも困ったものね。何時になったら戻るのかしら」

毬が息を吐くと父と殿も息を吐いた。

「先月の末に麿から関白殿下に文を送りました。文には足利と三好の対立が尖鋭化している事、太閤殿下にも負担がかかっている事を記しました。小侍従殿の事もおじゃります。殿下に早く戻って欲しいとお願いしたのですが……」

「なかなか、戻れぬようでおじゃるの。踏ん切りが、つかぬ、らしい。二条、万里小路も勅勘の処分を、受けた。一安心、と思ったかもしれぬ」

父も殿も表情が優れない。困った事……。

「でも、二条様も万里小路様も諦めていないのでしょう? 迷った方々を脅したと聞きました」

私が問うと父と殿が渋い表情で頷いた。

「幸い、な事に頭中将が、防いでくれた。帝も、お喜びじゃ。頼りになるとな」

「畏れ多い事におじゃります」

殿が軽く頭を下げると父が満足そうに頷いた。殿は帝の御信任が厚い。その事を喜んでいるのだと思った。

「関東制覇は無理なのでしょう?」

毬が問うと殿が”無理でおじゃります”と頷いた。

「武田がそれを許しませぬ。関東制覇は北条だけではおじゃりませぬ。武田も相手にする事になるのです。とても……」

殿が首を横に振った。

「川中島で、勝てれば違ったの、でおじゃろうが……」

父が息を吐いた。

「無理よ、父上。頭中将殿は勝てないと言っていたわ」

殿はずっと関東制覇は無理だと言っていた。上杉は武田に勝てないとも言っていた。殿の予想通りになっている。当代随一の軍略家というのは誇張ではない。そんな凄い人が私の背の君だと思うと胸が熱くなった。

「頭中将殿、兄上が頭中将殿を関東に連れて行っても無理だった?」

毬が悪戯な笑みを浮かべている。殿が迷惑そうに眉を潜めた。

「兄上がね、頭中将が傍に居ればって文に書いてるの」

殿が息を吐いた。

「無理でおじゃります。先ほども言いましたが武田と北条を相手にするのです。中途半端な結果にしかなりませぬ」

毬が悪戯な笑みを浮かべたまま”そうかしら”と言うと殿が”無理です”と改めて答えた。

「毬、その辺にせよ。あまり、頭中将を困らせるな」

父が窘めると毬が”困った?”と殿に問い掛けた。殿がまた息を吐いた。

「お話中、失礼致しまする。宜しゅうございましょうか?」

廊下から声が聞こえた。殿が父に視線を向ける。父が頷いた。

「かまわぬぞ、入れ」

殿の言葉に山地玄斎、杏が入ってきた。この邸を警護する桔梗の一党……。一体何?

「何か有ったか?」

殿の問いに玄斎が頷いた。

「この邸を探る者が居りまする」

低い声。シンとした。顔が強ばる。毬も表情を変えている。

「甲賀者か?」

「いえ、忍びではございませぬ。侍にございます」

「昨日から邸の周りを」

玄斎、杏が答えた。そんな事が有ったの? 全然気付かなかった。あ、殿の顔色が変わっている。怖い、殿が顔色を変えるなんて……。

「侍と言ったな。浪人ではおじゃらぬのか?」

「いえ、身形は整っておりました」

「一人か?」

「二日とも同じ人物にございます」

殿が目を細めた。

「邸の周りをうろつくだけだと?」

「邸の中を探ろうとは致しませぬ」

殿が問い玄斎が答えた。二人とも声が重いと思った。

「速いな、速過ぎる。……何者か?」

速過ぎる?

「分かりませぬ。万造に追わせたのですが……」

杏が口籠もった。

「巻かれたのか?」

「いえ、随分と用心していたそうです。何度も後ろを振り返るため追えなかったと……。次の日は私が外に出て何か用かと訊ねましたが無言で立ち去りました」

殿がまた息を吐いた。

「申し訳ありませぬ。我らこの邸の警護を命じられておきながら」

謝罪する玄斎を殿が”止めよ”と止めた。

「相手の用心が一枚上手だったという事でおじゃろう。謝る必要はおじゃらぬ」

「明日以降は?」

殿が唇を噛み締めた。

「この邸の者は何もするな。相手は用心しているのだ。何者かは分からぬが手強いぞ。そういう相手に手出しは無用だ」

「……宜しいのでございますか?」

「西洞院大路の者にやらせる。邸の中の者には用心しているようだ。ならば邸の外から探らせよう。後で文を書く。西洞院大路へ届けてくれ」

玄斎、杏が”はっ”と畏まった。

「厄介な事になったかもしれぬ」

父が”頭中将”と声を掛けた。

「厄介とは?」

殿が一つ息を吐いた。

「殿下、昨日の事でおじゃりますが小侍従が子を産んだそうにおじゃります。産まれたのは男子だと報告がおじゃりました。母子共に健康と」

思わず息を飲んだ。公方様に子が……、男子……。毬は……。毬は顔を強ばらせている。「では、進士が?」

父の問いに殿が首を横に振った。

「赤子は昨日産まれました。武士がこの邸を探ったのは一昨日。辻褄が合いませぬ。もっとも進士が御台所を邪魔だと思っているのは間違いおじゃりませぬ。進士の可能性を否定は出来ませぬ」

「二条様達という事はありませぬか?」

私が問うと殿が頷いた。

「それも無いとは言えない。ここ数日、養母上の部屋を窺う者が居る。新大典侍の信頼が厚かった女官達だ」

「それって……」

毬が声が震えている。殿が頷いた。

「繋がっているのか、繋がっていないのか、分かりませぬ。ですが反近衛、反飛鳥井の者達が現状を変えようとしている事は間違いおじゃりませぬ」

「此処を襲うか?」

父の問いに殿が玄斎に視線を向け”どう思うか”と訊ねた。

「その可能性は大いに有ると思いまする。我らがこの邸を警護するのもそのためにございます」

父が”うむ”と頷いた。

「殿下、そろそろ御台所、寿に全てを話すべきかと」

全て? 毬と顔を見合わせた。毬が不安そうな顔をしている。

「已むを、得ぬの」

父が頷いた。私達を気遣うような表情をしている。この状況を喜んでいないのだと思った。何を隠していたの? ”御台所、寿”と殿が呼んだ。

「産まれた赤子は直に殺されますぞ」

「!」

「!」

「三好の手によって」

永禄五年(1562年) 四月上旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 飛鳥井基綱

この邸を窺う者が居る。侍で用心深い。二日探った。米泥棒かな? 米価が高騰しているから有り得ない話じゃない。しかしな、相手は相当に用心深かったらしい。自分の素性を探られる事を恐れている。米泥棒の可能性は低いだろうな。やはり幕臣かな? 毬が邪魔になった。だが小侍従が子を産む前に動いている。となると……。いや、待て。狙われたのは誰だ? 毬と決めて良いのか? そこから考えよう。

可能性が有るのは太閤殿下、毬、俺だろう。寿は無いだろうな。では太閤殿下だとしたら誰が動く? まず考えられるのは二条達だな。殿下に万一の事が有れば帝にとっては大きなダメージだ。俺も痛い。右大臣も動揺するだろう。それを狙ったかな? しかしなあ、殿下を殺しても二条達が許される事は無い。むしろ帝の怒り、嫌悪が増すだけだろう。逆効果だよ。脅迫事件の直後だ。あまり強引な事をするのは危険だと危惧してもおかしくないんだが……。

甘いかな? 新大典侍が動いている。一歩下がって考える、そんな余裕は無くなっているのかもしれない……。しかし公家が侍を動かす? どうもピンとこない。動かすとすれば六角か畠山の家臣だろう。六角が動くとは思えない。六角は現状維持で十分なんだ。太閤殿下を殺す理由が無い。右衛門督も今は動けないだろう。ならば畠山? 六角よりは可能性は高いだろうが三好との戦が目前に迫っている。こっちに関わっているような余裕が有るとも思えない。どうもピンとこないな。

幕臣達が動いた可能性はどうだろう? 毬を孤立させようとした。そういう狙いが有ってもおかしくは無い。いや、孤立させようとしたのは慶寿院かな? それも有り得るな。義輝が最も苦手なのは慶寿院だろう。だとすると毬を追い出すのに反対しそうな慶寿院の力を弱める事を狙ったのかもしれない。これなら小侍従が子を産む前に動きが有ってもおかしくは無い。十分に有り得るな。しかしどこから兵を集めるんだ? そこが引っかかるんだよ。六角、畠山を頼るのは難しいと思うんだが……。

狙われたのは毬? これはもう幕臣だな。気に入らないのは小侍従が子を産む前に動きが有る事だ。しかし主目的が太閤殿下で毬はおまけだとしたら? 殺せれば良し、殺せなくても良し。毬への脅しにはなる。有り得るなあ、有り得る。毬にせよ慶寿院にせよ近衛家がバックに有る。あの二人を排除、あるいは影響力を弱めようとすれば近衛家を弱める必要が有るんだ。だから幕臣達は二条・万里小路と組んだ。関白殿下が京に居ない今、太閤殿下が標的になる可能性は極めて高いという事だ。殿下は身体が不自由だ。殺すのは難しくない。

帝に話した方が良いな。帝には子が産まれた事は伝えたが女官の事は言っていない。しかし近衛家でも不審な動きが有った。大きな騒乱に繋がる可能性が有る。隠しておくことに意味は無い……。

「眠れませんか?」

寿が心配そうに声を掛けてきた。

「起きていたのか」

「はい、殿が眠れないようなので……」

寿が俺の胸にそっと手を当ててきた。その手を握って抱き寄せると寿は素直に身体を寄せてきた。

「済まぬな」

「いいえ、嬉しく思います。私達のために悩んでいるのですもの」

「近衛も飛鳥井も敵が多過ぎる。困ったものでおじゃるな」

「まあ」

寿が可笑しそうな声を出した。

「可笑しいか?」

「はい、可笑しゅうございます。当代随一の軍略家と称される殿が困っているのですもの」

怖くないのかな?

「狙われているのだぞ? 怖くはおじゃらぬかな?」

「殿を信じております。怖くありませぬ」

そんな信じられても……。俺が笑うと寿も笑った。寿が足を絡めてきた。すべすべした肌だ。おいおい、おかわりは無しだぞ。

「狙われているのは毬なのでしょうか?」

「それを考えていたが太閤殿下かもしれぬ。殿下が居なければ御台所だけでは無い、慶寿院様も力を失う」

寿が”父上を”と呟いた。

「敵の正体が掴めぬ、狙いもな。厄介な事だ」

正体、狙いが掴めれば手の打ちようが有るんだが……。面倒だな。いっそ火種を消すか? 赤子、義輝は三好が消してくれる。残る火種は誠仁皇子だ。こいつを消せば万里小路も諦めるだろう。しかしな、殺せば帝は俺が動いたって思うよな。養母、春齢、近衛家も気付く。俺を避けるだろうな。いや、排除かもしれない。それに皇統が細くなる。やはり無理筋だ。碌な事にならん。落ち込んでいると寿が”殿”と俺を呼んだ。

「十河讃岐守殿の毒殺は公方様が命じたのでしょうか?」

おずおずとした口調だった。もしかすると寿が眠らなかったのはそれを考えていたからかもしれないと思った。

「違う、幕臣の一部が勝手に動いたらしい」

「勝手に?」

寿の声には間違いなく非難が有った。

「多分進士、上野辺りでおじゃろうな。公方様のため。そう言いながら勝手に動く」

「そんな」

「珍しい事ではおじゃらぬぞ。幕臣が公方を無視して動くのはな。そして幕臣も一つにまとまっているわけではおじゃらぬ。バラバラだ」

「では公方様は毒殺をご存じないのですか?」

驚いている。そうだよな、驚くよな。

「最初はな、知らなかった。今は知っている。もっとも知らない振りをしているらしい。幕臣達はその事に気付いていないようでおじゃるな。ふふふ」

思わず苦笑いが出た。義輝に無断で十河讃岐守を毒殺する幕臣と知っても知らない振りをして幕臣を欺く義輝。一体どっちが酷いんだろう? まあ職場環境が最悪なのは間違いないな。

「酷い」

「ああ、酷い話だ」

幕臣達のしでかした事の最終的な責任は義輝が取る事になる。本人にその気が無くても三好が取らせる。義輝はどうするのかな? 進士や上野を恨むのか? 疎んじるのか? それとも三好だけを恨むのか……。

「公方様も幕臣達も若君が殺されるとは思っていないのでしょうか?」

「三好は十河讃岐守が毒殺された事を病死と公表した。公方も幕臣も三好は毒殺を知らないと思っておじゃろう。だから赤子が殺されるとは露程にも思っておじゃらぬ。愚かな話だな」

寿が息を吐いた。危機感が無さ過ぎるんだ。義輝も幕臣も将軍の権威が下がっている事は分かっているだろう。しかし自分達は安全だと思い込んでいる。だから三好の勢力範囲で三好討伐なんて考え出す。

「では若君が殺されれば……」

「大騒ぎになるだろう。しかし三好を非難は出来ぬ。非難すれば三好は讃岐守の毒殺を公にするだろう。つまり先に仕掛けたのは公方という事になる。やられたからやり返した。そう言われるだけだ」

寿が息を吐いた。やられたからやり返す。当たり前の事なんだ。それに三好側は豊前守も殺されている。損害を考えれば三好の怒りは当然だと皆が言うだろう。

「あの、慶寿院様はご存じなのでしょうか?」

「知っている。毒殺の事も産まれてくる子が殺される事も」

寿がまた息を吐いた。馬鹿げているよな。義輝は何も気付いていない。兵を挙げていないせいだろう。当事者意識が無くただ三好を討つと騒いでいるだけだ。それが何を引き起こすのか全く関心を持っていない。そして周りの人間は義輝が引き起こす惨事を想像して憂いている。

「若君は何時頃……」

「多分、戦が終わってからだ。畠山が負け三好勢が公方を連れて京に戻る。公方が落胆しているところに追い打ちを掛ける事になる」

義輝は嘆き悲しむだろうな。三好はざまあみろと思う筈だ。そして足利と三好の対立はより尖鋭化する。そうなれば義輝も自分は当事者だという意識が芽生えるだろう。

太閤殿下をこの邸に置いておくのは危険だな。西洞院大路の邸に避難させよう。毬と寿も避難させる。だが相手に分からないようにやらないと。朝一番で相談だな。

永禄五年(一五六二年) 四月上旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木稙綱

倅の長門守が文を読み終わるとなんとも言えない表情で文を懐にしまった。

「進士主馬頭殿からの文です。小侍従殿が男子を産んだと書いてあります。公方様も大層お喜びだとか。目出度い事ですな」

はて、儂だけでは無い。左兵衛尉、右兵衛尉、左衛門尉も訝しんでいる。

「儂や左兵衛尉達には文は見せぬのか?」

長門守が面白く無さそうに”ええ”と頷いた。

「進士一族はこれからも公方様に身命を賭してお仕えし若君を盛り立てていく、幕府を必ずや昔のように勢い盛んにしてみせると書かれてありました。将軍の外戚になって権勢を振るう。そんな事を考えているのでしょう。嬉しさが文に滲み出ております。進士一族が権勢を振るう? 碌な事になりますまい。読み進む程にうんざりしました。それに若君は……、見ない方がよろしいでしょう」

左兵衛尉達が渋い表情で頷いている。そうだな、儂も見たくなくなったわ。

「憐れですな。直に殺されるというのに……」

「三好に知られていないと思っているのだ。自分に都合良く考える。公方様も進士も同じよ。似た者同士、気が合う筈だ」

右兵衛尉、左兵衛尉の言葉に皆が頷いた。右兵衛尉は憐れと言ったが儂には滑稽にしか思えぬ。困ったものよ。

「三好家も喜んでいましょう。公方様、進士一族にこれ以上は無いほどの絶望を与える事が出来るのです。主馬頭などよりもずっと喜んでいると思います」

左衛門尉が”ふん!”と鼻を鳴らした。幕府に対して相当に不満が溜まっていると思った。それも仕方が無い事よ。朽木は公方様にも幕臣達にも踏み付けにされておる。此度の文も交流の無い進士からの文だ。自慢以外の何ものでも無かろう。

「祝いに行かねばなるまい」

「そうですね。直ぐに用意します」

儂と長門守の会話に左兵衛尉達が訝しげな顔をした。

「公方様が京に戻ってからでも良いのではありませんか?」

「そのような事をすれば朽木を敵視している連中を喜ばせるだけとは思わんのか、左衛門尉」

左衛門尉が面目無さそうな顔をした。

「自慢かもしれんがわざわざ文を寄越したのだ。直ぐに行って祝いの言葉を述べるのが筋よ。遅れればその分だけ嫌がらせを受けよう。それに三好が動くかもしれん。そうなる前に祝いの言葉を述べるのだ」

殺されると分かっている若君の誕生を祝う。茶番でしか無い。だが公方様も進士も分かっていないのだ。茶番でも付き合うしか無い。

「また粗雑な扱いを受けるかもしれませんな」

長門守が憂鬱そうな表情をした。憐れな……、誰よりも憐れなのはこの息子かもしれぬ。公方様には人の上に立つ器量は無く進士達も愚劣でしかない。そんな者達に嬲られるのだ、辛かろう。

「耐えよ。弱い者は耐えるしかないのだ」

「分かっております」

長門守が視線を伏せた。口惜しかろう。

「直に子が生まれる」

「はい」

「いずれは永田達を滅ぼして高島郡を押さえる」

「はい」

「そして織田様が上洛すれば……。分かるな? その方には未来が、希望が有るのだ。どれほど理不尽な仕打ちを受けようと未来を信じよ」

「はい」

声に力が有った。大丈夫だ。長門守は耐えられる筈だ。