作品タイトル不明
束の間の平穏
永禄五年(1562年)三月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「次から次へと……、帝も大変でおじゃるの」
兄権中納言飛鳥井雅教が苦笑交じりに言った。
「まあ、そんなに?」
「うむ。そなたは笑っておじゃるが昨日が四人、今日も四人じゃ。一度に押しかけては帝もお困りでおじゃろうという事での、頭中将が拝謁の希望者を受け付けて割り振っている。一日に四人、一人づつ間を置いて順番に拝謁させておじゃる。終わるのは四月の初めになろう。帝も手際が良いとお喜びじゃ」
兄の言葉に吹き出してしまった。兄も笑っている。
「一日四人とは少なくありませぬか?」
「まあ、それだけが帝の仕事ではないからの。昼前に二人、昼後に二人が精一杯よ。息抜きも必要じゃ」
「左様でおじゃりますね」
頷くと兄がぐっと身を乗り出してきた。
「皆、驚いておじゃる。思いのほかに多いわ」
「……」
「三好と足利、どちらが勝つか。迷ったようでおじゃるの。旗幟を鮮明にしなかった事で決断を先延ばしにしたようでおじゃるがまさかそれで脅されるとは夢にも思わなかった事でおじゃろう」
小声だが耳に響いた。
「飛鳥井の家は当事者なれば二条様達から誘いは来なかった。だが当事者で無ければ当然誘いが有った筈じゃ」
「どうなさいました?」
兄が苦笑を浮かべた。
「迷った筈じゃ。決断を先延ばしにして逃げたやもしれぬ。そう思うと彼らを蔑む事は出来ぬ」
「では蔑む方が居るのですか?」
兄が頷いた。
「あまり見栄えの良いものではないからの」
「二条様達は焦っているのでしょうか?」
兄が口元に笑みを浮かべた。
「二条様達は伝手を頼って宥免を得ようと考えたらしい。だが二条様達のために動く者はおじゃらぬ。皆、頭中将を恐れているからの」
「……」
あの子が恐れられている。已むを得ない事だけど胸が痛んだ。
「二条様達が皆を脅したのも下策とは思っても誰も動かぬ事に焦れたのでおじゃろう」
「ですが右府が帝に全てを話す事でお許しを得ました」
言外に二条様達もあてが外れただろうと言うと兄が”うふ”と笑った。
「頭中将の方が一枚上手よ」
「……兄上、それは?」
問い掛けると兄が驚いている。
「知らぬのか? 右府が帝に話したのは頭中将の助言が有ったからでおじゃるぞ。帝にも右府を咎めぬようにと願ったと聞く。その方が他の者も話しやすかろうとな」
「なんと……」
驚いていると兄が頷いた。
「実際毎日拝謁を願う者が居る。二条様達の脅しは役に立たぬという事じゃ。その分だけ朝廷は安定する。頭中将への帝の御信任は益々厚くなった。右府も何かと頼りにしておじゃる」
”ホウッ”と息が出た。なんと頼もしいのか……。
「その事、どなたから?」
「右府から直接聞いた。大分こちらに気を遣っておじゃるな。今更ではおじゃるが飛鳥井は周囲から一目も二目も置かれる家になったらしい。驚いたわ」
今度は兄が”ホウッ”と息を吐いた。
「寧仁様の事が関係しているのでしょうか?」
兄が目を逸らした。
「多分、関係していると思う。だが野心は持つまいぞ。父上からつまらぬ野心は持つなと釘を刺されておる。父上は頭中将は筋の通らぬ事は嫌うと言っておられた」
「ええ、あの子はそういう所が有ると思います」
兄が”うむ”と頷いた。
「麿もそう思う。万里小路の事も有る。ごり押しするような事はすまい。碌な事にならぬからの。巧まずに流れに任せた方が良い」
兄の口調からは揶揄は感じなかった。本当にそう思っているのだろう。
「早く戦が終わらぬかの、落ち着かぬわ」
「真に」
畠山勢は米不足で苦しんでいると聞くけど……。
永禄五年(1562年) 三月下旬 山城国葛野郡 万里小路惟房邸 新大典侍
文を読んでいた兄、万里小路権大納言が文から目を離し一つ息を吐いた。……深いと思った。内容は良くないらしい。
「二条様からの文でございますか?」
兄が頷いた。
「役に立たぬの」
「二条様がでございますか?」
「いや、二条様もよ。皆、役に立たぬわ」
不愉快そうな表情、口振りだった。
「脅せば多少は役に立つかと思ったが……。帝に話すとは考えたものよ」
「右府でございますか?」
問い掛けると兄が頷いた。
「お陰で皆が帝に話すわ。腹が立つ!」
兄が膝を強く叩いた。余程に憤懣が溜まっていると思った。でもそれも仕方が無い。何一つ上手く行かないのだ。私も苛立ちを感じざるを得ない。
「あのお調子者にそんな事が出来る程の胆力が有るとは思いませんでした」
思いっ切り蔑んでやると兄がジロリと私を見た。
「あのお調子者が考えたのではないわ!」
「では?」
問い掛けると兄が”ふん!”と鼻を鳴らした。
「困った右府が頭中将に泣きついたのでおじゃろうよ。頭中将は帝に全てを話すように右府を説得し帝にも右府を許すように説得した」
「……」
「そうなればこちらの動きを抑える事が出来ると言えば帝は……」
兄が私を見た。”受け入れますね”と答えると兄が面白くなさそうに頷いた。
「してやられたわ。今頃頭中将は笑っておじゃろう。麿らが公家を脅していると帝は知ったのだ。我らを益々嫌悪した筈だからな」
「……」
兄がまた”ふん!”と鼻を鳴らした。
「それに帝が右府を初めとして告白した者達を信じると思うか?」
「それは……」
首を横に振ると兄が頷いた。
「その通りだ。状況次第でどちらに転ぶか分からぬ者達だ。とても信じられまい。となれば帝は益々頭中将を信じるようになる」
「……」
兄が頬を歪めた。
「上手いものよ。着々と足元を固めるわ」
面白くなかった。後宮では持明院家の新内侍が藤典侍に昇進した。飛鳥井は着実に勢威を増している。このままでは……。
「兄上、このままでは……」
兄が顔を顰めた。
「分かっている。活路が無いと言うのでおじゃろう」
「そうです。例の件、兄上は反対ですか?」
「反対だ、未だその時ではおじゃらぬ。焦ってはならぬ」
「ですが」
「焦って宥免をと動いた結果がこれじゃぞ。焦ってはならぬ」
「……」
私が納得していないと見たのだろうか。兄が息を吐いた。
「あれは危険過ぎる。成功する確率も低い。博打に過ぎよう」
「それは分かっております。でも他に道が」
「案ずるな。寧仁様は未だ幼児だ。無事に育つかも分からぬではないか。先は分からぬが今暫くは誠仁様の立場が脅かされる事はおじゃらぬ」
「それはそうですが」
「相手は手強い。焦らずじっくりと時期を待つのだ」
時期を待つ? 時期は来るのだろうか? 来なければ私達は、誠仁様はどうなるのだろう……。
「今、幕臣達が面白い事を考えているようだ」
「それは?」
兄がにやりと笑った。
「頭中将を目障りだと思うのは他にも居るという事よ。すこしやり過ぎたの」
永禄五年(1562年)三月下旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 倉石長助
結構土が硬いな。鍬で土を掘り起こしながら思った。唐辛子は十本、畝は一つで良かろう。南瓜も十本だがこちらは畝は五つにしよう。蔦が伸びるからな。出来るだけ広く土地を使わないと……。真桑瓜の畝も作らなければ……。
「ねえ、何をしているの?」
「種でも撒くの?」
振り返ると倉と弓が詰まらなさそうに俺を見ていた。鍬を振り上げて土に入れた。掘り起こす。無視は拙いな。絡まれたくない。
「種を撒くのは四月の半ばを過ぎてからだ。見ての通り、今は土を耕して解している」
倉が”ふーん”、弓が”へー”と言った。
「少し早くない? 四月の半ばまで半月以上有るわよ」
弓が訊ねてきた。”ふん!”と気合いを入れて鍬を振り下ろした。
「耕すのが終わったら油粕を入れなくてはならん」
「油粕?」
今度は倉だ。表情からして油粕が何か分かっていないな。弓も分かっていないと見た。仕方ない、手を止めた。今日は天気が良い。額の汗を手拭いで拭った。
「肥料だ。菜種から油を絞った後の残り滓でな。これを土に入れる事で作物が良く育つようになる」
また二人が”ふーん”、”へー”と言った。他にも入れるのが有るが説明するのは面倒だな。
「作物はどれだけ良い土に出会うかで成りが違うのだ。土の手入れを怠っては良い作物は作れん」
ここの土地は悪くない。水捌けが良いのだ。後は土地を富ませれば物成りは良い筈だ。
「でも種を撒くのは四月の半ば過ぎでしょう? やっぱり早いんじゃない」
「遅いくらいだぞ、弓。油粕を入れたら半月は種を撒くのを待たねばならんのだ。土が熟れるまでそのくらいかかる。今月一杯かけて土を良く耕し油粕を入れる。半月待って種を撒く事が出来る」
二人が”ふーん”、”へー”と言った。これで三度目だ。
この二人、こういう百姓仕事にはまるで関心が無い。百姓に化ける事も有ると思うんだが……。鍬を振り上げ下ろした。カツンと音がする。石かな? 掘り起こすとやはり石があった。結構大きい。鍬の歯を見た。大丈夫だ、欠けてはいない。未だ居るな。
「暇なのか?」
二人が曖昧な表情で頷いた。
「六角に動きは無いしね。公家も大分大人しくなったわ。心配なのは摂津の御味方よ。どうなっているのかしら?」
「それに修理大夫様の事も心配だし……」
倉と弓が憂鬱そうな表情をしている。
「俺は公方の側室が気になるな。そろそろ産まれる筈だ」
二人が鋭い目で俺を見た。少し引き締まったようだ。
「男、女、どちらが産まれるかしら」
「どちらでも一緒よ。長くは保たない」
倉と弓が冷笑を浮かべながら言った。
「あんたはどう思うの、長助」
倉が俺を見ている。弓も見ていた。
「俺もどちらでも良いな。出来れば死産であって欲しいよ」
二人が顔を見合わせた。
「ついでに側室も死んでくれれば万々歳だ。こっちは手を汚さずに済む」
弓が”あのねえ”と声を上げた。
「それじゃ意味が無いじゃない。公方様に思い知らさなければならないんだから無事に産まれなければ駄目よ」
「弓の言う通りだわ」
二人が頷いている。
「やられたらやり返す。気持ちは分かるがこのままだと止まらなくなるぞ。それで良いのか?」
「……」
「……」
二人が押し黙った。心の中で主殺しの文字が浮かんでいるかもしれない。
「朝廷では親足利の動きは潰えた。こちらの殿様は畠山は負けると見ている。ここで側室と赤子が死ねば進士一族の勢威も陰りが出る。頼りになるのは六角だが六角だけでは三好を討つのは無理だ。公方様も少しは考えるんじゃないか」
本当に母子ともに死んでくれないかな。そうなれば上の方もざまあみろって笑えると思うんだよ。多少は溜飲が下がると思うんだが……。
「長助殿、お茶にしませぬか?」
声のした方を見ると菊殿だった。ふむ、いつもは志津殿なのだが……。
「母屋にお茶を用意しました。手を洗って来てください。そちらのお二人も一緒に」
菊殿が去って行く。やっぱりこの邸の女達は良いわ。こういう心遣いが嬉しいのよ。三人で手を洗って母屋に行くと菊殿と小雪殿がお茶を淹れているところだった。うん、饅頭もある。益々嬉しい。
礼を言って茶を飲んだ。旨いわ、生き返るようだ。
「志津殿は?」
「あら、気になるの?」
「冗談は止してくれ、小雪殿。いつも手強く値切られるので苦手なのだ」
女達が声を上げて笑った。菊殿って本当にくノ一なのかな。垂れ目でコロコロ笑っている姿はそうは見えんのだが……。
「今日は頭中将様が非番だからお客様が来ているの。志津殿は忍んでいるわ」
なるほど、修業部屋か。
「相変わらずこの邸は客が多いわね。昨夜は後藤但馬守が来たわ」
弓の言葉に小雪殿が顔を綻ばせた。
「頭中将様に惚れ込んだみたいですよ。そうでしょう、菊殿」
菊殿が頷いた。なるほど、忍んだのは菊殿か。
「何度か頭中将様を公家には惜しいと。どなたかと比べたようです」
皆で失笑した。右衛門督では不安なのだろう。こちらの殿様が跡継ぎならと思ったのだろうな。もしそうなったら……。寒気がするな。
「ところで今日のお客様は?」
倉が聞くと”伊勢伊勢守様”と小雪殿が答えた。政所執事か……。倉、弓は渋い表情をしている。俺も同様だろうな。
「微妙な立場よね。幕府を空には出来ぬと言って京に留まったけど……」
弓の言葉に皆が頷いた。伊勢守は親三好の幕臣で公方様からは避けられている。しかし京に留まり六角と共に京の施政を行っているのだ。三好を裏切ったと見られても仕方が無いのだが……。
「今更公方様に付こうとしても公方様は拒否するわよ。公方様にとって政所を牛耳る伊勢一族は邪魔でしかない」
倉の言う通りだ。公方様は機会が有れば叩きたいと思っている筈だ。腹が減ったな。饅頭を口に運んだ。
「うん、美味いな、この饅頭」
倉と弓が呆れたような顔をし小雪殿と菊殿が笑った。
「あんたねえ」
「小言は後だ、倉。まずは食べて見ろ。美味いぞ」
倉が俺を睨んだ後、饅頭を口に入れた。”あ、美味しい”と言うとまた小雪殿と菊殿が笑った。弓も饅頭を口に入れると”美味しい”と言った。今度は皆で笑った。
「甘い物ってなんでこんなに美味しいのかしら」
「そうよね、太らないように気をつけないと」
倉、小雪殿が笑いながら言う。良いよな、こういうの。味方じゃ無い、協力しているだけだ。でも茶を飲んで饅頭をつまんで皆で笑っている。明日になれば敵になるのかもしれない。でもこうやって笑えるって良いよな……。