作品タイトル不明
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明日が、出国の時となった。
随行人数は、マルクを含めて十二名。
王族が他国を訪れる際の標準的な随員――護衛騎士六名、文官二名、侍従二名、医官一名、そして側近としてのマルク。多すぎれば威圧となり、少なすぎれば軽視と取られる。
机の端には、一本の葡萄酒。
城下を巡視した折、簡素な護衛だけを伴って立ち寄った店で買ったものだ。王旗も掲げず、儀仗も連れず。ただ王子として町を歩いた日。
店主は私が王子と知っていたが、態度は変えなかった。
「お若いのに、難しい顔をなさる」
そう言われたのを、覚えている。
残りは、わずか。
……飲みきるか。
扉が叩かれる。
「入れ」
入ってきたのは、第一王子だった。
「二人だけで話すのは、久しぶりだな」
その瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走る。
理由は分からない。そして、それは直ぐに消えた。
兄に呼ばれると、時折こうなる。
「……そうですね」
兄は椅子に腰を下ろす。しばらく沈黙。やがて言う。
「いいか」
その声は、どこか硬い。
「お前を無能と囁く声があった。私はそれを聞いていた」
兄の拳が、わずかに握られる。
「否定してやるべきだった。だが私は――お前の前でこう言ったな。『そのまま終わるつもりか』と」
私は瞬きをした。あまり覚えていない。だが周囲がそう見ていたことは知っている。
「だがあれは、突き放したかったわけではない」
兄の視線が、私を射抜く。
「奮い立たせるつもりだった」
私は静かに聞く。兄は続ける。
「お前は優しい。だが甘い。王族は甘さで国を守れん。だから――」
言葉が止まる。
「だが、あの時のお前には、違う意味に聞こえたのだろうな」
私は首を傾げる。
「違う意味、とは?」
兄は一瞬だけ視線を逸らした。
「……いや。忘れろ」
兄の声音が妙に慎重な理由が、全く分からない。兄は深く息を吐いた。
「最近のお前は、よくやっている。条約も、学院も」
まっすぐに見る。
「見直した。誇らしいとさえ思う」
胸の奥が、静かに温かくなる。
「必ず帰ってこい」
低く、強い声。
「命令ではない。兄として言う」
私は背筋を伸ばす。
「王族である以上、国の為に、国民の為に尽くす所存です」
一拍。
「そして、必ず帰ります」
兄の拳が、ゆるむ。
私は葡萄酒を持ち上げる。
「城下で買いました」
「そうか」
杯を二つ。注ぐ。
「……足りんな」
「無理を言わないで下さい」
「帰ってきたら、続きを飲もう」
「その時は兄上の奢りで」
小さな笑い。
そこには、王太子と第三王子ではなく。
ただの兄と弟がいた。
――兄だけが、あの日の夜を、覚えている。
出立の朝は、冷え込んでいた。
石造りの城壁に朝日が当たり、白く光っている。
城門前の石畳には、すでに随行の者たちが整列していた。総勢十二名。
王家の大旗は掲げない。
槍の先に掲げられた旗は、王家の双獅子を戴きながらも、その上に細い三垂れの銀標を添えている。王の紋章とは異なる、第三王子を示す印である。威圧ではなく、礼節。
私は鞍に手をかけた。
深紺の外套は朝光を受けて静かに艶を帯びている。金ではなく銀の縁取り。王の威を誇る色ではなく、理を示す色だ。腰には細身の剣を佩いているが、柄頭に宝石はない。あくまで儀礼のための一本。
城門の上では、鐘がひとつ鳴った。
王と第一王子、宰相が歩み寄る。
近衛は距離を保って控えている。簡素だが、軽視ではない。
王が短く言う。
「国を背負うことを忘れるな」
「は」
第一王子は、私をまっすぐ見た。
昨日と同じ目だ。
「必ず帰れ」
「必ず」
それ以上は言わない。
宰相が静かに付け加える。
「隣国は強大です。言葉一つ、仕草一つが意味を持ちます」
「心得ております」
神官が短い祝祷を唱え、聖水を軽く振りかける。私は胸の前で十字を切った。
祈りは、盾にはならない。だが人の心を支える。
城門の外には、まだ多くの民はいない。だが数人の商人と職人が、遠巻きにこちらを見ていた。
かつて顔を合わせた者もいる。目が合うと、ひとりが帽子を取った。私は小さく頷く。
胸の奥に、不安はある。条約が結ばれたとはいえ、紙は刃を止めない。
もし彼らが本気になれば、私は交渉の駒にも、人質にもなり得る。
私は馬に跨った。マルクも続く。
「殿下、準備は整っております」
「ああ」
城門が軋みながら開く。冷たい外気が流れ込む。振り返らない。だが背後に、兄の視線を感じる。蹄が石を打つ。一歩。また一歩。
城を出る。
……恐れは胸にある。だが、無知に留まることの方が、私には耐え難い。
朝日が、進む道を照らしていた。