作品タイトル不明
37
隣国に入ると、始めの出迎えがある。
石造りの城壁都市。大国の旗が高く掲げられていた。城門の上に、背に矢筒を負った弓兵が並ぶ。
私は馬上で城門の前に至る。
そのとき、ふと手綱を引く。高く積まれた石壁。その厚み。継ぎ目。壁の内側を走る水路の流れ。堀へと落ちる水量と、その音。
私はしばし目を留める。
農業協力を結んだ以上、水の扱いは他人事ではない。国の強さは、城壁の高さを見ればわかる。だが国を本当に支えているのは、その石ではない。
石を運び、積み上げ、絶えず動かし続ける“流れ”だ。流れは、人であり、水でもある。
それは川となり、水路となり、街を巡っている。水を制する国は、富を制し、兵を動かす。だから私は、まず、城ではなく水路を見た。
城壁の監督を務める辺境伯へ、軽く会釈を向けた。私は振り返り、同行の技官に問う。
「この水は、城内と農地に、いかに配している」
技官は簡潔に答える。
「水門は三つ。季ごとに板を替え、下流の畑へ段を落としております」
私はそれ以上問わず、一度だけ頷いた。
「見事な設えだ」
それだけを告げ、再び馬を進める。
――さすがは強国。
私は馬上で城門をくぐる。太鼓が鳴る。足並みを揃えた歩兵が、通りの両側に道を作る。
私は馬上で姿勢を正す。城門の上からも、横からも、背後からも視線。
逃げ場はない。
私は一瞬、息を整える。
(会社の役員会よりは、マシか)
城門をくぐった先、内郭の小広場に五つの色が並ぶ。
中央に、紫のビロード。その左右に、鋼と毛皮。
やや後方に黒衣。さらに端に、宝石の光。
風が旗を揺らす音だけが、広場を満たしていた。
私は馬を進め、石畳の中央で止める。まだ言葉は発せられていない。その配置を一目で測る。
中央が王の名代。鋼は地方軍の長。
毛皮は都市総督。黒衣は学院設立準備の学者。宝石の光は商人ギルド。
――通過地点にしては、揃いすぎだ。
次の瞬間、私は手綱を従者へ渡した。石畳に足をつける。ざわり、と空気が動く。紫の眉が、わずかに上がる。
――先に降りた。
馬上は高さであり、武威であり、優位の象徴。それを自ら捨てることは、敵意がないという意思表示。
だが同時に、跪かぬまま歩み寄ることは、対等の立場を失わぬという宣言でもある。
私は一歩進み、静かに礼を取る。膝は折らない。だが、礼は浅くない。
小国の王子としての謙譲と、王族としての矜持。
その境界を、石畳の上に引く。
そこでようやく、中央の紫が一歩進み出た。
金糸で縁取られた袖が陽を受け、鈍く光る。
「レオンハルト殿下。我が王の名において、貴殿の入境を認める。旅路の労をねぎらい、この都市にて束の間の安寧を得られよ」
声はよく通る。だが、温度は低い。
歓迎の辞――。しかしその響きは、祝福というより宣告に近い。
「我が国は約定を重んじる。ゆえに貴殿にもまた、節度と誠意を求めるものである」
わずかな間。広場の空気が固まる。
鋼の男――地方軍の長は微動だにせず。
毛皮の総督は表情を読ませない。
黒衣の学者は、興味深げに目を細める。
宝石の光は、値踏みするように視線を滑らせる。
――今の一挙手一投足が、今後の扱いを決める。
卑屈に出れば軽んじられ、強く出れば傲慢と見なされる。その紙一重を踏めるかどうかを、見られている。
私はもう一歩、紫の前へ進み出る。
「王の御厚意、痛み入ります。強大なる御国の秩序と叡智に触れられること、私にとって望外の誉れ」
顔を上げる。視線はまっすぐに。
「我が国は小国にございます。ゆえにこそ、約定の重みを誰よりも知る。誠意をもって学び、誠意をもって応える所存です」
ざわめきが、わずかに変わる。
私は続けた。
「束の間の滞在とはいえ、この地で交わされる言葉が、両国の未来を静かに支える礎となることを願っております」
沈黙。拍手はない。だが、視線の質が変わる。
鋼の男の瞳が、わずかに細まる。毛皮の肩が、ほんのわずかに緩む。黒衣が頷きを隠す。宝石の光が、計算を始める。
そして中央の紫。その口元が、ほんの僅かに上がった。
――甘い理想を語るだけの王子ではない。
軽くあしらうつもりだった視線が、慎重なものへと変わる。
広場を包んでいた“侮り”が、静かに形を変える。
試しは、終わっていない。だが第一問には、答えた。私は、そう感じていた。
何事も、始めが肝心だ。
その一歩が、その後の流れを決めることがある。
それは、どんな場であろうとも。
マルク視点
始まりは、いつも静かだ。
だが、その静けさこそが、流れを決める。
――と、殿下は考えておられるのだろう。
マルクは一歩後ろで、その背を見ていた。
あの石畳に足をつけた瞬間、広場の空気が変わったのを、彼も感じていた。
だが。
(心臓に悪い……)
馬上から降りるのが、わずかに早い。膝を折らぬ礼。視線を逸らさぬ返答。
一歩違えば、無礼。一歩違えば、侮辱。
それを、迷いなく踏み抜いていく。
鋼の男が、わずかに目を細めた。毛皮の総督が、呼吸を緩めた。黒衣が頷きを隠した。
それらを、殿下は読んでいるのだろう。
だがマルクには、まだ読めない。
(どうか、誰も剣に手をかけませんように)
誰かが「侮辱だ」と声を上げれば、空気は一瞬で変わる。
それでも殿下は、恐れを見せない。いや。
見せないのではない。呑み込み、整理し、切り分けているのだ。
マルクは知っている。
殿下は夜更けまで机にかじりつく人ではない。最近増えた、山のような書簡を前にしても、優先を決め、線を引き、やるべき分だけを終わらせる。
そして、きっぱりと定時に席を立つ。
「今日はここまでだ」
その背中を、マルクは何度も見てきた。
無理をしない。だが、逃げもしない。
(だからこそ、あの背は揺れない)
広場の中心に立つ姿は、静かだ。
焦らず、気負わず、過剰に構えない。大国の石壁の前でも、殿下はただ“今日やるべきこと”をやっている。
それだけなのだ。
それでも。
今日、この一歩で、流れは変わった。
マルクは確信した。殿下は、侮られない。
だが同時に思う。
……これからが、本当の戦いだ。
今日のやり取りは、書簡となる。
王の名代は必ず報告する。言葉の調子も、礼の角度も、沈黙の長ささえも。それが王の目に触れたとき、どのような色で語られるのか。
「礼を失せず」と記されるか。
それとも「境を踏み越えぬよう注視すべし」と添えられるか。その筆先ひとつで、次に向けられる視線の温度は変わる。
殿下は、きっと分かっている。
マルクは思う。
紙の上の戦いは、剣よりも静かで、そして長い。