作品タイトル不明
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新しい土地は、クロウフォード家の領地の外れ、少し高台にあった。
見晴らしは良いが、水は届かない。そのため、長い間、誰も手を出さなかった場所である。
その開墾は、遊水池を築く決定と共に始まった。農民は、慣れ親しんだ土地を離れることになった。
祖父の代から耕してきた畑を振り返る者もいた。土の癖も、水の流れも、風の向きも知り尽くしている場所だった。
「本当に、あんな高台で育つのかね」
誰かが呟いたが、答える者はいなかった。
農民たちは、高台に立ち、鍬を振るった。
一鍬目で、すぐに思い知らされる。土は浅く、その下は石だらけだった。
鍬は何度も弾かれ、腕に痺れが残る。雑木の根は深く絡み、引いても抜けない。切り、掘り、ほじり出すだけで、半日が過ぎる。
起こした土は乾ききり、風にさらわれる。
水がない土地とは、こういうことかと、誰もが黙って理解した。
作物どころではない。畑の形になるまで、どれほどかかるかも分からない。
それでも、手を止める者はいなかった。
「水が来る」
そう聞かされたからだ。これまで、誰も届くと思わなかった場所に、初めて、人の手が入っている。
汗が、乾いた土に落ちる。まだ何も育たないこの土地で、それでも彼らは、未来の収穫を信じて、鍬を振るい続けた。
水が引かれたと聞いた日のことを、よく覚えている。あの高台に、ついに水が届くのだと、皆で顔を見合わせた。クロウフォード家の領地にも、変化が来たのだと。
やがて細い水路が通り、澄んだ流れが畑へと導かれた。子どものように、その水に触れた者もいた。
けれど――現実は、思った通りにはいかなかった。
水は、土に触れたそばから、すぐに吸い込まれていく。乾いた高台の土は、まるで長年の飢えを満たすかのように、水を飲み込んだ。
畝はすぐに白く乾き、苗は力なく項垂れる。
従来の作物では、ここでは育たない。
水路も、か細い。流れてはいるが、足りないのだと、誰の目にも分かった。
あれほどの労苦の末に畑の形にしたというのに。それでもなお、この土地は応えてくれないのかと、さすがに口数が減った。
やがて、ぽつりと声が落ちた。
「……失敗だったんだ」
誰も咎めなかった。
「前の土地に戻ろう。あそこなら、飢えはせん」
頷く者もいた。
やさぐれた声が、乾いた風に紛れた。
その時だった。高台へ、小柄な影が歩いてくる。
リディアだった。まだ若い。それでも彼女は、ひとりひとりの前に立った。
「……まだ、これからです」
声は強くなかった。
「どうか、もう少しだけ。もう少しだけ、頑張ってみましょう」
領主の声なら、命令だ。だが彼女は、まだ次期領主に過ぎない。
お願いだった。土に膝をつき、指で乾いた畝をなぞる。
「私も、ここに立ちます。皆さんと一緒に」
未熟なのは、誰の目にも明らかだった。だが、誤魔化しはなかった。
遠くで、伯爵が静かに見ていた。口は挟まない。ただ、娘の背を見守っている。
農民たちは顔を見合わせた。
「……そこまで言うのなら」
渋々、という体で、鍬が再び振り上げられる。
諦めたわけではない。ただ、少女の願いを、無下にはできなかった。
そんな折に届いた知らせだった。第三王子が、農業における協力の取り決めを結び、必要とする領地は申し出よとの通達があったという。
クロウフォード伯爵は、すぐに名乗りを上げた。
見慣れぬ荷車が、高台へと上がってきた。
鋼の光る刃をつけた鋤。柄の角度がこれまでと違う鍬。石を積むための切り出された資材。
農民たちは手を止め、じっとそれを見た。
「……ずいぶんと立派なもんだな」
誰かが言ったが、声音に感心はなかった。最後まで古い土地に残っていた男が、腕を組んだまま近づいてくる。
背は高くないが、肩は厚い。長年、土を相手にしてきた手をしている。
村では、自然と皆が彼の判断を見る。
「隣国の技術だそうだ」
役人が言う。男は鼻で笑った。
「隣国、か。こっちの石混じりの土を知ってる連中か?」
誰も答えない。若い農夫が、新しい鋤に触れようとする。
「待て」
短い一言で手が止まる。
「壊れたら、どうする。直せるのか? 替えはあるのか?」
実際的な問いだった。返答は用意されていた。修理の者も来ていること、部品も運ばれていること。
男は黙る。だが納得したわけではない。
その頃、水路の補強も始まった。石を運び、積み直し、崩れぬよう組み替える。
「また工事か」
「畑もまだ整いきっていないのに」
疲労が滲む。
水は確かに流れている。だが足りない。
それは皆が分かっている。分かっているからこそ、重い。
男は石を持ち上げながら言う。
「これで水が増える保証はあるのか」
「流れが安定すれば、無駄は減るとのことです」
「とのこと、か」
吐き捨てるように言う。第三王子の取り決めだと聞いても、畑を耕すのは自分たちだ。
やがて、新しい鋤を試せと言われた。若い者が恐る恐る刃を入れる。土が、深く割れた。
「……軽い」
思わず漏れた声。
男は無言で鋤を取り上げる。重さを確かめ、刃の角度を見る。
ゆっくりと押し込む。石に当たる感触。だが弾かれない。刃が石の隙間を縫うように入り、土を裏返す。
一時間かけていた深さまで、あっけなく届く。
男は眉をひそめる。もう一度。同じ。
それでも言う。
「今年だけだ」
周囲が顔を上げる。
「全部は任せん。半分は従来のやり方でいく。残り半分だけ、試す」
無茶はしない。だが意地で拒みもしない。それが、彼なりの守り方だった。
種も同じだった。見慣れぬ小さな粒を手に取り、じっと見る。
「芽が出なけりゃ、笑い話にもならんぞ」
誰かが苦く笑う。それでも、蒔いた。半分だけ。
芽が出るまでは、誰も口を開かなかった。芽が出ても、まだ疑った。枯れるのではないかと、毎日見に来た。
だが枯れない。乾いた風が吹いても、従来の苗より踏ん張っている。
男は、畝の端にしゃがみ込む。指で土を掬い、湿り気を確かめる。何も言わない。
数日後、ぽつりと呟く。
「……来年は、全部これでいく」
その一言で、決まった。
誰も反論しなかった。理念でも、忠誠でもない。畑が答えた。
それだけだった。
クロウフォード家の高台に、風に揺れる作物の波が生まれた。
あの、誰も手を出さなかった土地で。
汗ばかりを吸い込んでいた土が、
初めて、実りを返した。
――成功したのだ。