作品タイトル不明
30
私の休日の朝は、決まって中庭から始まる。
城の中がまだ眠っている時間、石畳に降りる。瞬間の冷たさで、何も背負わない私に戻る時間。
冴える。まずはゆっくりと身体をほぐす。筋を伸ばし、呼吸を整える。この時間は、余計な思考を払い落とすための儀式のようなものだ。
そのまま城の外周を軽く走る。規則正しい足音だけが、朝の澄んだ空気に響く。考え事をするでもなく、ただ走る。身体が温まり、息が整ってくる頃には、心の中まで澄んでいる。
戻れば、湯で汗を流す。簡素な朝食をとるのも、いつものことだ。豪奢な料理は必要ない。身体がよく動き、頭がよく働けばそれでいい。
午前中は読書にあてる。政治史、兵法、商業記録、他国の地誌。頁をめくる音だけが静かに響く部屋は、私にとって何より落ち着く場所だ。文字を追いながら、国のかたちや人の営みを思う。
午後になると、護衛を伴って城下町へ出る。
護衛は四名。前後に二人ずつ、少し距離を取ってつく。過剰でもなく、手薄でもない。民の中に紛れながら、いざという時には即、対応できる配置だ。
視察という名目は立てない。ただ歩く。店先を眺め、人々の声に耳を傾ける。報告書には載らない匂いや空気、視線の動き。それらを知ることの方が、よほど確かな実感をくれる。
城下を歩いていると、足が止まる場所がいくつかある。
そのうちの一つが、通りの角にある小さな菓子屋だ。炉の熱気と、蜂蜜の香りがいつも店先まで流れている。
城の厨房で出される菓子は洗練されているが、ここで焼かれるものには、どこか素朴な力強さがある。小麦と木の実、干し果実を練り込み、蜂蜜でまとめた焼き菓子。ほんの少しだけ胡椒が効いているのが、この店の特徴だ。
甘いだけではない。後味が引き締まるその風味が、妙に癖になる。
他に時折、もう少し甘みの強い菓子も買う。
干し果実を多く練り込んだものや、蜂蜜をたっぷり使ったものだ。頭を使い過ぎた日や、人に気を遣い続けた日の夜は、そういう甘さがひどく恋しくなる。……それらは、疲れた心を静かにほどいてくれると、知っているからだ。
「殿下、またですか」
後ろから、護衛のひとりが小さく息をつく。
「視察だ」
答えながら、私はすでに銀貨を差し出している。材料の値、焼き加減、客の入り。見るべき点はいくらでもある。だからこれは立派な視察だ。……半分は。
包みを受け取ると、まだ温かい。蜂蜜と香辛料の匂いがふわりと立つ。
その足で、酒屋にも寄る。樽の並ぶ薄暗い店内は、外の喧騒とは別の時間が流れている。
今日は辛口を一本。澄んだ味のものを選ぶ。こういう菓子には、甘い酒よりこちらの方が合う。
夜、自室に戻ってからが、この買い物の本当の終わりだ。
灯りを落とし、机に包みを置く。肩書きのない私に、戻る時間。
焼き菓子をひとつ割り、口に運ぶ。蜂蜜の甘さの後に、胡椒がわずかに舌を引き締める。そこへ辛口の酒を含むと、味がすっと整う。
昼間に見た城下の景色が、静かに思い返される。店主の手つき、客の笑い声、通りのざわめき。
報告書には載らない一日が、ここでようやく自分の中に落ち着く。
「……視察の成果は、上々だな」
誰もいない部屋で、ひとりごちる。
甘いものは好きだ。酒も好きだ。
だがそれ以上に、この時間が好きなのだ。
……人は、ひとりの時を味わうことで、静かに熟れていくのかもしれない。