作品タイトル不明
139
ある地方の話。
冷たい雨の降る夕暮れだった。
司教は、丘の上に建つ古い城館を見上げる。
灰色の空、濡れた石壁、閉ざされた窓。
かつては宴と狩猟で名を馳せた伯爵家だったが、今では笑い声も消えて久しい。
門兵が重い門を開ける。
「ようこそお越しくださいました、司教様……」
声には疲労が滲んでいた。
司教は静かに頷き、館の中へ足を踏み入れる。
暖炉には火が入っていたが、妙に寒かった。
廊下を歩けば、使用人達は皆、怯えたように視線を伏せる。
「旦那様は?」
「……書庫に」
短く答えた執事は、少し迷うように口を閉ざした。
「夜になると、鐘の音を嫌がられます」
司教は何も言わなかった。
重い扉が開く。
薄暗い書庫の中、伯爵は椅子へ座ったまま、虚ろな目で暖炉を見つめていた。
まだ五十にもなっていないはずだった。だが、その顔は老人のように痩せ細っている。
「……お久しぶりですな」
司教が声をかけると、伯爵はゆっくり振り向いた。その目の下には、濃い隈が浮かんでいた。
「司教……」
掠れた声だった。
机の上には、空になった葡萄酒の瓶が転がっている。
「眠れておりませんな」
伯爵は、乾いた笑みを浮かべた。
「眠れば、夢を見る」
暖炉の火が揺れる。
「焼けた村が出てくるのだ」
伯爵は小さく呟いた。
「泣いている子供も。門を叩く女も」
その手が、微かに震えていた。
「私は門を開けなかった」
司教は黙って聞いていた。
「開ければ、城の備蓄が尽きる。騎士達も家族も飢える。だから閉じた」
伯爵は顔を覆う。
「だが、夜になると聞こえるのだ。あの声が」
雨音だけが響いていた。
「神に許しを乞いたい」
伯爵は震える声で言う。
「だが……館から出られぬ」
「何故です」
伯爵はゆっくり顔を上げた。
その目には、子供のような怯えが浮かんでいた。
「もし城門の外に、まだ彼らが立っていたら?」
司教は息を呑む。
「もし、あの日死んだ者達が、私を見ていたら……」
伯爵は突然立ち上がった。
椅子が倒れる。
「夜になると聞こえるのだ!」
叫び声が、石壁へ反響する。
「食べ物を、と!子供が死ぬ、と!」
呼吸が乱れ、伯爵は額を押さえた。
「鐘が鳴る度に、責められている気がする……!」
司教は静かに近づいた。そして震える肩へ、そっと手を置く。
「……あなたは、悪魔に取り憑かれているのではありません」
伯爵は、ゆっくり顔を上げた。
「人であるだけです」
暖炉の火が、小さく爆ぜる。
「多くの者が壊れております。農民も、騎士も、貴族も」
司教は静かに言った。
「神は、人が弱いことをご存知です」
伯爵は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく呟く。
「……許されるだろうか」
司教は答えなかった。
簡単に許しを与えられるほど、軽くなかった。
「それでも、生きねばなりません」
静かな声だけが、書庫へ落ちた。
館を出る頃には、外はすっかり夜になっていた。
冷たい雨は、まだ降り続いている。
遠くの村では、教会の鐘が鳴っていた。
司教は、白く煙る吐息を見つめていた。
第三王子の領地。
医官は、数枚の報告書を抱えて私の執務室へ入ってきた。
「殿下」
医官は一礼し、静かに口を開く。
「ある種の患者に対し、薬酒の使用を増やしたく思います」
私は羊皮紙から目を上げた。
「……阿片入りの葡萄酒か」
「はい」
医官は頷く。
「ただし、常用ではありません。対象は、不眠と発作を繰り返している貴族達です」
最近、この温泉地には奇妙な患者が増えていた。身体より、心を壊した者達だ。
彼らは眠れない。眠れぬまま酒を浴びるように飲み、更に心を壊していく。
「まず、最初の数日だけです」
医官は続けた。
「夜、阿片を混ぜた葡萄酒をほんの数滴。深く眠らせます」
「……依存は」
「避けます」
医官は即答した。
「眠れる、という成功体験だけを与えるのです。その後は量を減らします」
彼は机へ別の小瓶を並べた。
乾燥したいくつかの香草だった。
「二週目からは、こちらへ移行します。香りを強くし、同じ薬酒と思わせます」
「偽薬か」
「ですが、温泉で身体が温まり、眠れる習慣が戻れば、人は落ち着きます」
私は腕を組んだ。
強制的に眠らせ、少しずつ抜く。この時代にしては、かなり危うい発想だった。
「最後は?」
「阿片は完全に抜きます」
医官は静かに言った。
「温泉、香草、規則正しい食事。そして、自分は回復した、という安心感だけを残します」
私はしばらく黙った。
窓の外では、巡礼者達の鐘が鳴っている。世界は冷え、人々の心は擦り切れていた。
だからこそ、眠れる、というだけで救われる者もいる。
私は小さく息を吐いた。
「……分かった。許可する」
医官が頭を下げる。
「ただし、記録は残せ。量も、症状も、全てだ」
「は」
「阿片に溺れさせるためではない。戻すために使え」
医官は静かに胸へ手を当てた。
「仰せの通りに」
最初の患者は、老伯爵だった。
彼は三日間、一睡も出来ていなかった。 夜になると突然叫び声を上げ、従者へ剣を向ける。
「飢民が来る……!」
「城門を閉じろ……!」
汗だくのまま震える老人へ、医官は温かな葡萄酒を差し出した。
阿片は、ごく僅か。蜂蜜と香草の香りが、苦味を覆い隠していた。
老伯爵は震える手で杯を掴み、ゆっくり飲む。
その夜、彼は、泥のように眠った。
翌朝、侍従は泣きながら跪いた。
「旦那様が……眠られました」
一週目。
老伯爵は毎夜、静かに眠った。
二週目。
阿片は減らされ、代わりに香草酒へ変わる。 だが本人は気づかない。温泉へ入り、暖かい食事を摂り、夜になれば自然に眠気が来る。
三週目。
阿片は完全に抜かれた。
それでも老伯爵は、自分の足で庭園を歩いていた。
「……眠れる」
呆然としたように、彼は呟く。
「こんなことが……」
その噂は、すぐに広がった。
聖堂の温泉地では、心の病すら癒える、と。
悩んでいた貴族は馬車を走らせた。不眠、恐慌、酒浸り、悪夢。
そして、この地は。そんな壊れた人間達が、もう一度眠るために訪れる場所になっていった。
だが当然、阿片は奇跡の薬ではない。
量を誤れば、人を眠りへ導くどころか、二度と抜け出せぬ依存へ沈める。
だからこそ私は、使用を厳しく制限した。
それは、過去の失敗があったからでもある。
かつて阿片に溺れ、破滅した貴婦人がいた。 快楽へ逃げた薬は、人を救うどころか、静かに壊していく。
だから禁じるべきだ、と恐れる者もいた。
だが私は、そうはしなかった。
危険があるから捨てるのではなく。危険があるからこそ、管理し、記録し、扱い方を学ばせる。
それが、この地で続けてきた学問だった。
医官達もまた、ただ命令へ従うだけではなくなっていた。
阿片を減らし、香草へ移行する手法も。温泉と睡眠を組み合わせる療法も。彼ら自身が考え、試し、積み上げたものだ。
私は最初の知識を示したに過ぎない。
だが今では、この世界の医官達が、自ら考え、自ら改良し始めている。
それは、小さな変化だった。
けれど確かに、蒔き続けた種は、ようやく根を張り始めていた。
この地では、薬酒は贅沢でも娯楽でもなかった。
壊れかけた人間を、辛うじて繋ぎ止めるための、最後の手段だった。