作品タイトル不明
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僕は、マルク様に仕える文官。
昔、マルク様の下で働く者は三人しかいなかった。帳簿係が一人。使者役が一人。そして雑務を押し付けられる僕。
それで終わりだった。
当時、この地は王家直轄の温泉領だったが、正直に言えば、それだけだった。
そこの領主となったのが、第三王子殿下だった。
最初に殿下が始めたのは、意外なことに衛生管理だった。
役人達は困惑していた。何が変わるのかと。
だが、病人の数は目に見えて下がった。
そして、殿下は温泉街の一角へ医学大学まで作ってしまった。
最初は誰もが冗談だと思っていた。
けれども、地方の薬師、医官、修道院の学僧達が少しずつ集まり始める。やがて、この地では奇妙な研究まで始まった。
阿片だった。もちろん危険な薬だ。量を誤れば、人を壊す。
だからこそ殿下は、逆に徹底して管理した。精製法、保管記録、使用量、全てを帳簿へ残させた。
違反すれば即座に処罰された。
「危険だから禁ずる」のではなく、「危険だから管理する」。
それが殿下の考えだった。
そして更に驚いたのは、教会まで巻き込んだことだ。
修道院に薬草畑を作らせ、巡礼路を整備し、 温泉を“癒しの聖地”として広め始めたのである。
気づけば、温泉街には人が溢れていた。
病人、湯治客、巡礼者、学びに来る学生達。
昔は三人だったマルク様の部下も、今では十人となった。
温泉管理、薬の記録係、大学との連絡役、教会との折衝役、物資管理、倉庫番、そして、治安維持。
領地は確かに豊かになっていた。
だからこそ、多くの者は安心していたのだ。
その年の春までは。
殿下は早くから冷害を警戒していた。
また始まった、と古参役人は苦笑していたが、殿下は止まらなかった。
備蓄庫を増築し、ライ麦を植えさせ、乾燥小屋まで作らせた。
そして、夏。来る日も、来る日も、冷たい雨が降った。
他の領では、麦は腐り、飢民が街道へ溢れ始めている、と聞いた。でも、ここは少し違った。夏の終わりに近づくにつれ、この地にも人々が流れ始めた。
秋には、他領で倉庫襲撃の報告が届いた。
冬が来る頃には、 この地には大勢の難民が流れ込んでいた。その数は、日に日に増えていた。
それでも、粥は配れた。
温泉はまだ湯気を上げていた。
大学の医官達は倒れず働き続け、 修道院は巡礼者を受け入れ、兵士達は備蓄倉を守り続けた。
その夜のことを、僕は忘れない。
報告書を閉じたマルク様が、暖炉の前で静かに呟いたのだ。
「……殿下が積み上げてこなければ、この領地も終わっていたな」
本当に、その通りだった。
衛生改革、医学大学、教会との連携も、阿片技術の管理、備蓄。
全部、この冬へ繋がっていたのだ。
だから今、僕達は働いている。
炊き出しの警備。難民同士の争いの仲裁。時には、悪夢に叫ぶ貴族を押さえ込むことすらある。
僕は治安維持担当なんだ。
とても忙しい。
……でも、不思議と。
昔より、この領地は生きている気がする。
……殿下は凄い。
誰も気づかなかったものを見ていた。その時には意味が分からなかったことが、 冬になって、一つずつ意味を持ち始める。
そして、マルク様も凄い。
殿下の命を受けると、必要な人間を集め、役割を割り振り、街を動かしていく。
医官は大学へ。修道士は修道院へ。兵士は倉庫へ。文官は帳簿へ。
混乱の中でも、不思議と仕事が止まらない。
だから僕達も働く。
皆、必死だった。
それでも時々、マルク様は疲れ切った僕達へ、必ず言うのだ。
「殿下は、“鐘が鳴った後まで働かせるな”と仰せだ」
最初に聞いた時は、耳を疑った。
こんな冬に、こんな状況で、休め、と?
もちろん現実には、そんな綺麗にはいかない。夜通し働く日もある。死人が出れば、誰かが動かねばならない。
けれどマルク様は、それでも交代を組み、倒れた者を無理に働かせず、粥だけでも食べさせて寝かせた。
「働けなくなれば、そこで終わりだ」
それが殿下のお考えらしい。
……はっきり言って、凄く難しい。
それでも、誰もが少しずつ、そのやり方を目標にし始めていた。無茶で回すのではなく、 生き残るために回す。
それが、この領地のやり方になりつつあった。
僕達は口には出さない。
表舞台へ立つこともない。
民が見て、貴族達が恐れ、敬うのは殿下だ。
けれどその後ろで、粥を配る者がいる。帳簿をつける者がいる。夜通し倉庫を守る兵士がいる。倒れた巡礼者を運ぶ修道士がいる。
誰かが動き続けているから、この冬は、まだ崩れていない。
皆、黙って働いていた。
……でもきっと。
誰もが、誇りを持っているのだと思う。