作品タイトル不明
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一方、大多数の領地は、そうではなかった。
農民達は、飢えていた。それでも、丘の上の城では、晩餐会が開かれていた。
巨大な暖炉では薪が赤々と燃え、長卓には塩漬け肉、燻製の鹿、硬いチーズ、干した果実、南方から運ばれた葡萄酒が並ぶ。
領主は銀杯を傾けながら、窓の外の雨を退屈そうに眺めていた。
「今年は寒いな」
その一言で済む程度の災厄だった。
城の地下倉庫には、何年分もの穀物が積まれている。
凶作は初めてではない。祖父の代にも、曾祖父の代にもあった。だから備える。備えられる者だけが。
富める領主は飢えない、それがこの国の仕組みだった。
もっとも、全ての貴族が、平然としていられたわけではない。
領地の小さな男爵は、既に倉庫の底が見え始めていた。
借金を重ねた騎士は、徴税を強めれば農民が逃げ、緩めれば兵が養えない板挟みに苦しんでいる。
ある伯爵は、夜ごと城壁を見回らせた。
飢民が押し寄せてくる夢を見て、眠れなくなったからだ。
冷夏が壊したのは、畑だけではない。
人の心もまた、静かに削られていた。
そして、領主達は完全に安全ではない。飢えた群衆は時に理性を失う。
「城門を閉じよ」
命令が下る。
跳ね橋が上がり、分厚い門が閉ざされ、武装した騎士達が城壁に立つ。
村人達は門前で叫ぶ。
「食べ物を……!」
「子供が死ぬんです……!」
けれど城壁の上から返るのは、冷たい視線だけだった。
施しが全く無いわけではない。
教会では祈りが捧げられ、領主は炊き出しを命じることもある。
大鍋に薄いスープを満たし、パンを配る。
慈悲深い領主だ、と神父は言った。
だが、そのパンの原資もまた、農民から取り立てた税だった。
収穫が半分でも、税は消えない。飢えた者ほど、最後の麦袋を差し出さねばならない。
ある村では、父親が娘を修道院へ売った。
また別の村では、畑を捨てて盗賊になる者が現れた。
さらに別の場所では、一揆が起きた。
だが、痩せた農具では、鉄の甲冑には勝てない。
反乱は鎮圧され、吊るされた死体が街道に並ぶ。それを見上げながら、人々はまた畑へ戻る。
もちろん、彼らも恐れてはいる。
国が荒れれば税は減る。農民が死にすぎれば畑を耕す者が消える。
だから完全には見捨てない。少しだけ救い、少しだけ生かす。死に絶えぬ程度に。
同じ冬、同じ雨、同じ国。
それでも、生きる世界は違った。
これが、この世界なのだ。
――少なくとも、今までは。
その中で、第三王子の領地では、少しずつ流れが変わり始めていた。
温泉へ集まる貴族、巡礼者を受け入れる教会、利益を求める商人、仕事を求める農民。
本来なら交わるはずのなかった者たちが、一つの土地へ集まり、金と食糧と労働を循環させていく。
無論、全てを救えるわけではない。
だが、本来なら飢えて死んでいたはずの誰かの口へ、確かにパンが届き始めていた。
冷えゆく世界の中で。
温泉の湯気を中心に、人々は少しずつ結びつき始めていた。
そして、クロウフォード領。
話は少し、遡る。
冷たい雨が、何日も降り続く中、一通の書簡が城へ届いた。
リディアは、封を切る。そこに書かれていた文字を見て、彼女は目を細めた。
『寒さに強い作物へ切り替えるように。ライ麦と蕪を増やし、水路の点検を急ぐように』
レオンハルト殿下からだった。
短い文章だったが、その内容は、この時代の常識から外れている。
小麦を減らすなど、普通ならあり得ない。 それでもリディアは迷わなかった。
「……殿下の指示なら、こちらも動くわ」
彼女は即座に家臣達を集めた。
「ライ麦を増やすのですか……?」
家臣の一人が困惑した顔をする。
「黒くて硬い、貧民のパンになる麦ですよ」
「構わないわ」
リディアは即答した。
「食べられることが大事なの。飢えるよりずっといい」
さらに命じる。
「蕪を増やして。葉も捨てないで豚へ回すのよ」
「ですが、家畜用の餌が――」
「森を使うわ」
リディアは地図へ指を置いた。
「伐採を進めましょう。ただし、樫は全部切らないで。残した森へ豚を放すの」
家臣達が顔を見合わせる。
「どんぐりで太らせるのですか?」
「ええ。傷んだ作物も全部豚へ回して。太ったら屠殺して、塩漬け肉へ加工するわ」
だが、現実は厳しかった。
長雨で街道は泥に沈み、伐採した木材を運ぶだけでも一苦労だった。 農民達の疲労は濃く、冷えで咳をする者も増えていく。
「本当に冬を越せるんですか……」
そう漏らす若者へ、リディアは立ち止まった。
自分だって不安だった。
倉庫の麦は減り続けている。ある領では、既に食糧不足で暴動が起きたという噂も届いていた。それでも。
「越えるしかないわ」
リディアは静かに言った。
「だから今、動いているのよ」
秋の終わり。
領内では、大鍋で蕪と塩漬け肉のスープが煮られていた。黒いライ麦パンは固かったが、腹は膨れる。
森では、太った豚が鳴いている。
伐採した木は薪となり、各村へ配られていた。凍える夜でも、火だけは絶やさない。
さらに余った木材は、他領へ売られていく。 冷害で薪不足に陥った領地では、乾いた薪が銀貨と同じ価値を持ち始めていた。
城の窓から、その光景を見下ろしながら。
リディアは、以前レオンハルト殿下が言っていた言葉を思い出していた。
「苦しい時代ほど、富裕層には金を使わせるべきだ」
最初に聞いた時、リディアは意味が分からなかった。
だが、殿下は静かに続けたのだ。
「飢えた農民は金を落とせない。なら、余裕のある貴族や豪商から流れを作るしかない」
温泉館、葡萄酒、巡礼宿、聖堂建設。
あの人は、ただ贅沢を広めたわけではない。
寒さで売り物にならなくなった葡萄を酒へ変え、地熱を利用して薪の消費を抑え、貴族達が落とした金を、石工や農民、伐採夫、荷運び人の賃金へ変えていった。
「金貨は、倉庫へ積めば腐る。だが、人へ流せば冬を越える力になる」
そんな考え方をする貴族を、リディアは他に知らなかった。
リディアは、静かに息を吐いた。
「……何とか、なってるわね」
その声には、疲労と、そして僅かな安堵が混じっていた。
そしてリディアは、机の上を見た。
彼がいなければ、クロウフォード領も今頃どうなっていたか分からない。
「……報告書を書かなくては」
リディアは小さく呟き、机へ向かった。
今年の収穫量、伐採の進行、豚の頭数、備蓄状況。
若い領主には、やるべき事が山ほどある。
羽根ペンを取り、羊皮紙へ視線を落とす。書き始めようとしたところで、ふと手が止まった。
「落ち着いたら、報告と一緒に行こうかしら……?」
小さく漏れた独り言。
父と母の顔も見たい。領地の外の空気も吸いたい。それに。
「……もしかすると、少しは言葉を交わせるかもしれないわ」
リディアは少しだけ微笑んだ。
窓の外では、冷たい雨が降り続いている。灰色の空の向こう。
彼女は静かに、レオンハルトのいる方角へ視線を向けた。