作品タイトル不明
135
商人視点
商人は、町から町へ、村から村へと馬車を走らせていた。
運ぶべき物がある。穀物、干し肉、塩、薬草。
そして最近では、第三王子の領から大量に発注された物まで増えていた。
しかし、その年の夏は、おかしかった。
雨が止まない。朝も、昼も、夜も、灰色の空から冷たい水が落ち続ける。街道は泥濘になり、車輪はすぐ埋まった。川は濁流となり、橋が流されたという話も増えている。商人は、濡れた外套を引き寄せながら空を見上げた。
「……今、本当に夏か?」
吐く息すら白い日があった。
最初は、皆ただの天候不順だと思っていた。
「そのうち晴れる」
「去年も雨は多かった」
そう言っていた。
だが、次第に景色が変わっていく。
畑の麦は倒れたまま起きない。刈り取った麦束は乾かず、黒ずみ始めていた。
村では、農民たちが立ち尽くしている。
「腐った……」
「全部だ」
「乾かねぇ」
そんな声を、商人は何度も聞いた。
牧場では、痩せた牛が泥の中に伏せていた。
草が育たない。干し草が足りない。
雨と寒さで、家畜まで弱り始めていた。
町へ入ると、今度は別の光景が目についた。
教会の前に、人が増えている。
膝をついて祈る者、罪を叫びながら泣く女、裸足で石畳を歩く巡礼者。
「神よ、お赦しください」
そんな声が、雨音に混じる。
巡礼者の列は、日に日に長くなっていた。
嫌な流れだった。町では、妙な噂まで流れ始めている。
「魔女の呪いだ」
「異教徒が井戸を汚した」
人は、恐怖すると理由を欲しがる。たとえ、それが間違っていてもだ。
商人は、馬車の荷台へ視線を向けた。
そこには、第三王子の領へ運ぶ穀物が積まれている。
商人は、かつて第三王子の領地へ入った時を思い出した。
夏だというのに、景色が暗い。いや、正確には“緑が弱い”。街道の両脇へ広がる畑は、どれも色が薄かった。
普通の小麦畑ではない。風に揺れているのは、白っぽく濁った灰緑色の穂。
「……ライ麦?」
御者が首を傾げる。
背丈が低く、畑の隙間から土の色が見えていた。街道沿いの畑は、地面へ這うように広がる葉、蕪が多かった。それは、貧相に見えた。
「随分みすぼらしい畑だな」
若い従者が笑う。
「小麦を諦めたんでしょうよ。こんな根菜ばかり植えて、金になるんですかね」
商人も、最初は同じ感想だった。
そして妙な動き。
備蓄倉を増やし、街道を直し、乾燥小屋まで作っていた。温泉の熱で冬用の苗床作りまで始めたという噂も聞いた。
そして秋。
移動をしていた商人は、言葉を失った。
あらゆる場所の畑が、死んでいた。
長雨で腐った小麦、倒れた穂、泥に沈んだ畝。農民たちは空を睨み、教会では終末の祈りが始まっている。
そして、第三王子の領地を訪れる。
商人は、見た。
確かに豊作ではないが、収穫は出ていた。
ライ麦は寒さに耐え、蕪は泥の中でも根を太らせていた。収穫されたライ麦は、黴る前に強制乾燥させていると聞いた。
「あの灰色の畑……」
商人は、ようやく理解した。
あれは、“貧しい畑”ではなかった。
冷える世界で、生き残るための畑だったのだ。
農民視点
一人の農民は、雨を見ていた。
今日も、雨だった。灰色の雲が空を覆い、冷たい雫が絶え間なく畑を叩いている。
もう何日、太陽を見ていないのか分からなかった。
畑は泥沼になっていた。芽吹いたばかりの小麦は腐り、踏み込めば足が沈む。
川は増水し、低地の畑は既に半分水を被っていた。
農民は深く息を吐いた。
夏だというのに、妻は家の中で火を焚いていた。子供達は毛布にくるまり、震えている。
冬用に残していた薪が、もう減り始めていた。
「……また雨か」
誰へ言うでもなく呟く。
村の老人は、これは神の怒りだ、と言っていた。
若者達は黙っていた。祈って晴れるなら、とうに晴れている。
農民は納屋へ入った。
積まれている穀物袋は、指で数えられる程度しかない。元々、余裕など無いのだ。しかも、その半分は食べてはいけない物だった。
来年の春に撒くための種籾だ。しかし、子供は腹を空かせる。妻も、日に日に痩せていく。
村では既に、牛を潰した家が出ていた。
畑を耕すための牛だ。それを食べるという事は、来年を諦めるという事だった。
昨日、隣家の男が犬を捕まえていた。誰も何も言わなかった。言える空気ではない。
雨は止まず、寒さも消えない。畑へ出ても、小麦は育たなかった。
そしてある日、農民は、納屋の最後の袋を開けた。種籾だった。
妻が何か言おうとして、やめた。子供達は無言でそれを見ていた。
農民は理解した。
――もう、この村では生きられない。
春が来ても、植える種はない。牛もいない。
畑も腐った。残るのは、飢えだけだ。
数日後、村から人が消え始めた。
皆、粗末な杖を持ち、首から木の十字架を下げていた。
巡礼者の格好だった。
「聖地へ向かう」
そう言えば、兵にも追い返されにくい。教会で施しを受けられる。運が良ければ、パンと寝床を得られる。
だから人々は、“巡礼”になった。
老人も、母親も、痩せた子供も。泥の道を、列になって歩いていく。
農民は最後に、一度だけ振り返った。
そこには、長く暮らした家があった。祖父の代から耕してきた畑があった。
だが、もう煙は上がっていない。
冷たい雨だけが、静かに降り続いていた。
農民は、何もなくなった。
だから、全てを捨てて逃げた。
――巡礼、という名のもとで。