作品タイトル不明
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私は姉の背を見送りながら昨夜のことを思い出していた。
食事の後、私は姉の部屋へ向かった。
これが、最後の個人的な会話になるかもしれない。
廊下には灯火が落とされ、城の中は静かだった。遠くで衛兵の槍の石突が鳴る音だけが響いている。
扉の前で、私は足を止めた。中から、すすり泣く声が聞こえたからだ。
「……姫様、どうか、お身体だけは……」
老いた女の声だった。姉に幼い頃から仕えている侍女頭だ。
部屋を覗くと、白髪混じりの老女が、手で顔を覆い泣いていた。
「そんなに泣かないで」
姉は困ったように笑い、その背を撫でている。
「皇国まで、お供できれば……どれほど良かったか……」
「長旅に、あなたの身体が耐えられないでしょう」
「ですが……!」
老女の声が震える。
「姫様は、お優しすぎます。あのような遠国で、お一人でなど……」
姉は何か言おうとして、少しだけ言葉を止めた。その目は、赤かった。
泣いたのだと、すぐ分かった。
私は、間が悪かったと思った。
今は入るべきではない。そう考え、踵を返しかけた時だった。
「レオンハルト」
姉が、私を呼び止めた。
「伝えたいことが、あったのでしょう?」
静かな声だった。
私は、数秒だけ迷い、部屋へ入る。
老女は慌てて涙を拭い、頭を下げた。
「……私が浅慮でした」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
もっと早く気づくべきだった。姉が、どれほどのものを背負わされているかも。
姉は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「……その言葉は、聞かなかったことにするわ」
穏やかな声音だった。
「皇国なのです。最高の相手と考えるべきでしょう。我が国にとって」
それは、事実なのだろう。
小国が、皇国と血を結ぶ。本来なら、栄誉ですらある。けれど。
「でも、あんな遠くに行くなんて……」
再び、老女が咽び泣いた。
姉は苦笑しながら、その手を握る。
「泣くのはやめて。これは、目出度いことなのだから」
「……出来ません」
老女の涙は止まらなかった。
「姫様が生まれた日も、歩けるようになった日も、この城で見て参りました……」
声が崩れる。
「それなのに、もう、お傍におれぬなど……」
姉は何かを堪えるように目を伏せた。
その睫毛が、小さく震えている。
「レオンハルト」
不意に、姉がこちらを見る。
「そんな目で、私を見ないこと」
少し厳しい声だった。
私は、何も言えなかった。
姉は、やがて微笑む。泣きそうなくらい、優しい顔で。
「よく頑張ってるわ。本当に変わったのね。寂しいくらいよ」
胸の奥が、妙に痛んだ。
「……昔の方が、良かったですか?」
ようやく出た言葉は、そんなものだった。
姉は、静かに首を振る。
「いいえ」
そして、少し誇らしそうに笑った。
「今のあなたは、ちゃんと多くの人を守れる人になっているわ」
私は、言葉を失った。
どうして、こんな時に限って。もっと気の利いた言葉の一つも、出てこないのか。
皇国の危険性も、婚姻の裏にある思惑も、守る方法も、いくらでも考えられるのに。
姉を安心させる一言だけが、どうしても見つからなかった。
私は、しばらく黙ったまま立っていた。
言うべき言葉が見つからない。慰めも、励ましも、今さら薄いものに思えた。
だから私は、懐へ手を入れた。
「……姉上」
姉が顔を上げる。
私は、小さな包みを机の上へ置いた。
布で丁寧に包まれたそれを見て、姉は不思議そうに瞬きをする。
「これは?」
「餞別です」
姉は、ゆっくりと布を開いた。
中から現れたのは、小さな木彫りの騎士だった。彩色はほとんど剥げ、片腕も少し欠けている。子供の玩具だ。これを見たとき、胸の奥、私の知らない何かが揺れたのだ。
姉は、それを見た瞬間、目を見開いた。
「……まだ、持っていたの……」
かすれたような声だった。
私は小さく頷く。
「昔、姉上がくれたものです」
まだ幼かった頃、騎士に憧れていた私に、姉が城下の市で買ってきた木人形だった。
『あなたもいつか、立派な騎士になるのよ』
そう言って笑っていたのを、覚えている。
「壊れてしまったと思っていたわ」
「一度、池に落としました」
「……あったわね、そんなこと」
姉が、赤い目のまま、少しだけ笑った。それでも、その笑みはどこか昔と同じだった。
私は視線を逸らしながら言う。
「高価な物ではありません」
「ええ」
姉は、木彫りの騎士をそっと撫でた。
「でも、これ以上の物はないわね」
静かな声だった。
老侍女が、再び目元を押さえる。
姉は、小さく息を吐き、それを胸元へ抱いた。
「離れてしまうのに」
ぽつりと、姉が言った。
私は答える。
「離れても、姉上は姉上です」
その瞬間、姉の表情が少しだけ崩れた。
強くあろうとしていた顔が、ほんの少しだけ。
「……本当に、変わったわね」
「そうでしょうか」
「昔のあなたなら、こんなもの渡さなかった。きっと、もっと不器用だった」
否定は、出来なかった。
姉は木彫りの騎士を大切そうに包み直す。
まるで宝石でも扱うように。
「皇国へも持っていくわ」
「ただの古い玩具ですよ」
「だからよ」
姉は静かに言った。
「向こうには、“私を姉と呼んでくれた時間”を知る人がいないもの」
その言葉に、胸の奥が妙に詰まった。
遠い異国、知らない城、知らない人々。
その中へ、姉は一人で行く。
王女として、国のために。
私は、ゆっくりと頭を下げた。