作品タイトル不明
第138話「気合よりお湯」
特にやることもなく中庭をぶらぶら歩いていると馬小屋のほうから音が聞こえてきた。
のぞいてみるとソフィアがシルフィーの体を拭いている。
「ソフィア、何してるの?」
「あ、メルヴィン様! シルフィーの手入れをしてたんですよ!」
「結構汚れてるね」
「馬小屋の中で寝転がって、藁やほこりがついちゃったみたいで。しっかり落としておかないと、毛並みが悪くなっちゃいますからね」
「へえ、そうなんだ」
ソフィアが手を動かすたびに毛並みがきれいになっていく。
こういう手入れも毎日やるとなると大変そうだけど、見ている分にはちょっと楽しそうだ。
「気持ちよさそうだね」
「はい! 綺麗にしてもらうのは好きみたいです!」
「暇だし、手伝おうか?」
「えっ、いけませんよ! お召し物が汚れてしまいます!」
「大丈夫、大丈夫! 何すればいい?」
「うーん……じゃあ、そこのバケツの布を絞ってもらえますか?」
「うん、わかった」
バケツの布を取ろうと水に触れた瞬間、反射的に手を引っ込めた。
「冷たっ! ねえ、なんでこれお湯じゃないの?」
「わざわざ屋敷から加熱の魔石を持ってくるのが手間ですし、冬の寒さなんて気合ですよ、気合!」
ソフィアはあっけらかんと言うけれど、気合で水温が上がるわけがない。
冬に冷たい水で布を絞るなんて僕には無理だ。
《冷たい水を気合で我慢する発想は非論理的です。精神論で物理的な不快感を解決しようとする、極めて脳筋的な思考パターンと推測されます》
『脳筋って……まあ、たしかに力持ちだよね』
《肯定します。日常の作業データから分析しても、ソフィア氏の筋力は当屋敷のメイドの中でも上位に位置しています》
『でも細いし、パッと見じゃそんな風には全然見えないよね』
《見せるための筋肉ではなく、実用性に特化した動ける筋肉が効率的に形成されているためと推測されます》
『メイドの仕事だけでそこまで鍛えられちゃうの……?』
《はい。メイドの日々の業務はメルが想定している以上の重労働です》
『そうなんだ。僕が思ってたより、ずっと大変なんだね』
《その認識で間違いありません。なお、お手伝いを続行するのであれば、水を温めることを推奨します》
「僕は冷たいの嫌だなあ。お湯にするね」
バケツの水を温めてから布を絞る。
やっぱりお湯は温かくて気持ちがいい。
冷たい水で手が痛くならないだけで、布を絞るのがかなり楽になる。
やっぱり根性で耐えるより、最初から温めたほうがいい。
「おお……やっぱり気合よりお湯ですね! 手が痛くならなくて最高です!」
「さっき気合って言ってたよね?」
「あはは! 良いものは良いですからね!」
「気合はどこに行ったの……」
気合論をあっさり撤回したソフィアに呆れつつ、絞った温かい布を持ってシルフィーへ近づいた。
「ほら、気持ちいいお湯だよ」
さっきまで大人しく拭かれていたのに、僕が相手だと急に知らん顔だ。
「あれ?」
手を伸ばすとプイッと顔を背けてしまう。
機嫌が悪いのかと思って顔をのぞき込めば、今度は鼻先でグイッと押し返してきた。
痛くはないけれど、あきらかに邪魔者扱いだ。
「ちょっと、拭いてあげようとしてるのに」
もう一度拭こうとしたら、今度はわざとらしく高い位置へ顔を上げて、手を避けられてしまった。
「こいつ、絶対僕のこと自分より下だと思ってるよね」
「女の子ですからね! メルヴィン様のことを手のかかる弟だと思って、お姉ちゃんぶってるんですよ!」
「僕、弟扱いされてるのかあ」
「馬は賢いですからね! 怒らないのをわかってて、わざとからかってるんですよ」
ソフィアが横から首筋を撫でると、シルフィーは急におとなしくなる。
僕への態度と全然違う。
これはもう、完全に下に見られている。
「ソフィアにはすごく懐いてるのに」
「毎日お世話してますからね! メルヴィン様も毎日ブラッシングしてあげれば、きっと懐いてくれますよ!」
「ええ……でもさっき拭こうとしただけで押し返されたよ」
「あはは! この子なりのスキンシップですよ、スキンシップ!」
「絶対に違うと思うけど……」
その顔が、まるで「その通り」とでも言っているように見えた。
やっぱりこいつ、絶対にわかっててやっている。
「もういいや。僕がやると邪魔みたいだし、あとは任せるよ」
「はい! もうほとんど終わってますから、あとは任せてください!」
ソフィアが残りの汚れを手際よく拭きあげていくのを、僕は大人しく見守ることにした。
しばらくして手入れが終わると、壁にかけてあった鞍をシルフィーの背中に乗せ始める。
「これからどこかに出かけるの?」
「はい! 屋敷の入り口に飾るための、冬の常緑樹の枝を切りに裏の森まで行ってきます!」
屋敷に戻っても特にやることはないし、馬に乗って森まで出かけるというのはちょっと楽しそうだ。
高いところから冬の景色を眺めてみるのも悪くない。
「ねえ、僕も一緒に行ってもいいかな?」
「もちろんですよ!」
ソフィアは鞍をしっかりと固定し終えると、ヒラリと身軽にシルフィーの背にまたがり、下で見上げている僕に手を差し出してくる。
「大丈夫? 僕、結構重いよ?」
「何を言ってるんですか! 私の腕力をなめてもらっちゃ困りますよ。メルヴィン様一人くらい、軽々と持ち上げられますから。ほら、手を!」
差し出された手を握ると、グイッと引き上げられた。引っ張られる勢いのままソフィアの前に座った。
「馬の上は結構揺れますから、落ちないようにしっかりつかまっていてくださいね!」
「うん、わかった」
言われた通りに鞍の端をしっかりと掴むと、シルフィーがトントンと前足で地面を叩き、早く出発したそうに体を揺らした。
「それじゃあ、出発しますよ!」
ソフィアが手綱を揺らすと、シルフィーがゆっくりと歩き出す。
馬に乗って進み始めると、ただでさえ冷たい空気が余計に冷たく感じる。
自分で歩いているときよりもずっと寒い。
「なんだか、結構寒いね」
「メルヴィン様、冬ですからね! ここは気合で乗り切るんですよ! ほら、胸を張って息を吸い込めば、寒さなんて吹き飛びます!」
「いや、冷たい空気吸い込んで寒くなるだけだと思うけど……」
《メルの推測を肯定します。冷気を吸い込んでも熱は産生されず、気道から体温を奪われるだけであるため、寒さを凌ぐ手段としては逆効果です》
『やっぱりそうだよね。これを我慢してたら風邪ひいちゃうよ。ナビ、なんとかならない?』
《風魔法で前方の冷気を逸らし、周辺の空気を温める複合術式を構築しました。あとは魔力を通すだけです》
『おっけー』
魔力を流すと、顔に当たっていた風がやわらぐ。
体のまわりも温かくなって、これなら快適だ。
やっぱり気合より魔法である。
「あれ? 急に風が当たらなくなりましたね。なんだか温かいような……」
「魔法を使ったんだよ。僕には気合で乗り切るのは無理だったからね」
「ああ~、あったかくて最高です! 冬の風も魔法の前には形無しですね!」
「……お湯の時もそうだったけど、さっきから全然気合足りてないよね」
「あはは! メルヴィン様がいれば、もう気合なんていりませんね!」
「すごい開き直りだね……」
「ブルルッ」
「ほら、シルフィーも呆れてるよ」
「温かくて喜んでるんですよ、きっと!」
そんな話をしながら、ゆっくりと馬に揺られる。
暖かい部屋でごろごろするのも好きだけど、寒くないなら馬の上も悪くない。
そのまましばらく揺られているうちに、森の入り口へ到着した。
ソフィアは僕を馬から降ろすと、手近な木の幹にシルフィーの手綱をしっかりと結びつけた。
「私はあそこの枝を切ってきます。メルヴィン様はここで待っていてくださいね」
《現在の魔法は、メルを中心に近くの対象を包む形で維持されています。ソフィア氏が離れると、馬上で共有していた温かい空気の範囲から外れます》
『そっか。遠くに行くと、届かないんだね』
《はい。目視範囲であれば別途形成できますが、現在の範囲が自動で追従するわけではありません》
「ソフィア、僕から離れると、この温かさは届かなくなるからね」
「そうなんですか? でも大丈夫です! これくらいの寒さなんて気合で乗り切ります!」
「また気合……」
「パパッと枝を切って戻ってきますね!」
「うん、わかった」