軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

2-20:紗雪の山歩き

一方、山に入った紗雪はジョギングのような軽い足取りで久しぶりの山を楽しんでいた。

幸生が管理する裏山の細い山道を一気に駆け上がり、天辺まで来たところで立ち止まって深呼吸をする。

さほど高くはないこの裏山は山頂まで木々に覆われ、上まで来ても空はあまり見えない。しかし子供の頃からここで遊んでいた紗雪は方向を見失うことも無く、少し休むと今度は山の反対側に向かって下り始めた。

地面を踏みしめ、一つ呼吸をする度に体中の細胞が目を覚ますようだ、と紗雪は思った。それを懐かしみ、そして少しだけ過ぎ去った時間を寂しく思う。

都会に出たことに後悔はない。あの時はどうしてもそうしたかったからだ。

そこでの出会いも、過ごした時間も、紗雪に沢山の新しい幸せを届けてくれた。それらはどれもかけがえのないもので、出会わなかった未来など今では考えられない。

けれど、若くて愚かだった自分が故郷の家族や友人を傷つけた事は確かで、それだけは申し訳なく思っていた。

紗雪はそんな気持ちを振り切るように勢い良く山を下り、道が切れた崖の縁から、沢沿いに見えた大きな木に向かって地を蹴った。

春先なので葉は少なく、木の幹がよく見える。真っ直ぐ飛び降りた先の太い幹に足を一瞬掛け、さらに上に跳ぶ。上にあった横向きに生えた枝に降り立つと、今度はそこから沢の対岸に向かって思い切り跳んだ。

「よっと!」

対岸に生えている木の枝に掴まり、くるりと一回転して少し下の枝に下りる。そこから今度は斜面に向かってまた跳び、足を付けるや崖のような急な坂を駆け上った。

「うん、まだそんなに、鈍ってなさそう」

は、と少しばかり息を吐き、道のなくなった山の中を走る。

まだ葉も下草も芽吹いたばかりだ。見通しの良い山を駆けるのは楽しかった。

米田家の裏山を抜け、奥の山に入ると途端にざわりと辺りの気配が騒がしくなった。

奥に行けば行くほど、虫や植物、爬虫類、動物などの種類も大きさも変わり、危険なものがぐっと増える。

しかし紗雪はさほど気にせず、足に噛みつこうとした植物の新芽をひょいと避け、時には踏みしだきながら目当てのものを探して走る。この辺りなら自分が一人でうろついても特に危険はないと、ちゃんと紗雪には分かっているのだ。

この山は中腹の丘のような場所を越えるとその向こうに湧き水から成る池と沢がある。その周辺には蛙が多いと記憶している紗雪は、まずそこを目指していた。

「っと、危ない」

木に手を掛けたところで、上からシュッと蔓が下りてきた。獲物を絡め取るつもりだったそれを紗雪はひょいと躱し、逆に掴んでぐいっと引っ張る。

「よい、しょっと!」

蔓は太く丈夫だったが思い切り引っ張り、蔓が抵抗して引いても伸びなくなったところで紗雪はそれを掴んだまま、また地面を強く蹴った。

「あは、こういうの、久しぶりっ」

ちょうど崖のような急な下り坂だったため、蹴った反動で蔓は紗雪をぶら下げたままブランコのように大きく振れる。谷の上まで届いたその動きの最後で紗雪はパッと手を離し、そのまま重力に任せて谷間に飛び込んだ。

やがて下に目当ての池とその傍らのクルミの大木が見えたところで、紗雪は手足を引き寄せてくるりと回転し、体勢を整える。

「あ、ルミちゃんだ! おーい!」

池の畔に見慣れた濃紺の巨大な蛙を見つけ、紗雪は声を上げた。

すると蛙はぎょっとしたように声のした方を見上げ、それから潰れる寸前のような声を発して大慌てで池に飛び込んだ。

紗雪は一瞬きょとんとしたが、地面はもうすぐそこだ。ルミがいた場所のすぐ隣辺りに飛び降りると、ズドン、と派手な音と共に地面が軽く揺れた。

「着地成功っと! ルミちゃーん」

無事に着地を果たした紗雪は立ち上がり、池に向かって声を掛ける。

池はしばらくぶくぶくと泡立ちながらも沈黙していたが、やがてそこからザバリと水を割って黒髪の男が現れた。

水に濡れた髪が藻のように長身に纏わり付き、完全に見た目がホラーなのだが紗雪は気にした様子もない。

「ルミちゃん、久しぶり! 紗雪だよ!」

「紗雪だよじゃないのよー! 貴女、山には来るなって伝言しておいたでしょう!?」

「え、伝言? 聞いてないよ?」

紗雪が悪びれず首を傾げると、ルミはぐぬぬと低く呻いた。あんなに念押ししておいたのに、意図的にそれが伝えられなかったという事実に気がついたのだ。その理由を考え、ルミはハッと気付いて慌てて身を引いた。

「まっ、まさかまた私を狩ろうなんて言うんじゃ……!?」

「ううん、違うよ。蛙を狩ろうと思ってきたけど、ルミちゃんは色が子供向けじゃないから、他の蛙を狙うつもり。ルミちゃんにはただ会いに来たの。空が手紙に書いてたから、懐かしくなっちゃって」

紗雪のその言葉にルミは何とも複雑そうに顔を歪めた。

自分が狙われていないというのは嬉しいが、他に目当ての蛙がいるというのは何となく悔しいやら同族としてのわずかな罪悪感やらを感じてしまう。会いに来てくれたのはちょっとだけ嬉しいが、嬉しく感じる事がどこか悔しい。

複雑な乙女(?)心を抱え、ルミはブルブルと頭を大きく振って水気を飛ばし、黒い髪をかき上げて後ろに流した。

「蛙を前に別の蛙を狩りに来たとか、気遣いってもんがないの!? ほんとにもう、いっつもそうなんだから!」

「えー、ルミちゃんは別の蛙狩ってもあんまり気にしないじゃない」

「いくら弱肉強食だっていっても、一応こっちにだって多少の仁義ってもんがあるのよ! 自分の縄張りの配下くらいは気に掛けるとか!」

ルミの言葉に紗雪はなるほどと頷き、池の周囲をぐるりと見回した。

すると二人のやり取りを息を潜めて見守っていた幾つかの気配が、ビクッとしたように一瞬揺れてそそくさと遠のく。水から出ていた目がピャッと引っ込み、周囲の茂みがわずかに揺れた。

「……びっくりさせちゃったみたいで、ごめんね?」

「ホントよもう! もう結婚して子供もいるんでしょ? お願いだからちょっとは落ち着いてよ……あと頼むからいきなり上から降ってこないで!」

子供時代から紗雪の行動力や、周囲の物を上手く使った謎の機動力にルミは何度も悩まされてきた。上から降ってこられるのはルミにとっては軽いトラウマなのだ。

「蛙だったら私の縄張りじゃなくて、苔山の方に行ってちょうだい! あっちにも手頃な大きさのがいっぱいいるはずだから。あと、苔山のキノコを食べてるのもいるから、変わった色のがいるって言うわよ」

とりあえずルミは保身のために、自分の縄張り外の蛙をそっと売り渡すことにした。

「コケモリ様のとこね。ありがとう、後で行ってみるね。コケモリ様も元気かなぁ」

「干からびたって話は今のところ聞かないわね。それより、旦那や子供を放ってこんなとこまで来て良いの?」

言外にさっさと帰れと滲ませながら、ルミは紗雪にそう聞いてみた。紗雪は気付かず笑顔のまま首を縦に振る。

「母さんたちが見てくれてるから大丈夫! 久しぶりに山歩きもしたかったしね」

「山歩きのついでに狩りとは、相変わらずね……蛙を狩ってどうするのよ?」

「子供たちの分の雨合羽を作ってもらおうと思って!」

やはり雨合羽にするのか、とルミはげんなりと肩を落とした。

村の人間は使い勝手の良い防水の効いた皮を手に入れるために、時々蛙を狩りに来る。蛙は増えるのも比較的早いし山奥の個体は大きいし、結構あちこちにいるのでちょうど良いのだ。肉などもきちんと食用などに活用するので、弱肉強食という観点で見れば仕方の無いことだとルミも理解している。

しかしそれと自分が狩られるのとは当然ながら別の話だ。幼い紗雪に散々追いかけ回されたルミにとって、雨合羽という単語は聞くのも嫌な言葉だった。

「子供の雨合羽ね……私が渋い色合いで良かった、と言うべきなのかしらね。子供って、空ちゃん?」

「ううん。空はもう持ってるから、他の子のね。私の子供は空の他に三人いるの」

「全部で四人……って、人間にしてはまあまあ多いんだっけ?」

「割と多い方かな? 空が双子だったから」

四人で多いとか双子という言葉が蛙の身には馴染まないながらも、ルミはふぅんと頷いた。

「人間ってなかなか増えないから不便よね。貴女と仲の良かった村の巫女ちゃんも、まだ結婚してないんでしょ?」

「え……巫女って、弥生?」

ルミの何気ない言葉に、紗雪はパッと顔を上げて驚いたように呟いた。

「そう、その子。蛙の噂では、そうだって聞いたけど……まだ会ってないの?」

紗雪と弥生は子供の頃から仲が良く、山歩きにも時々連れ立ってやってきたのをルミは憶えている。弥生の方はあまり山歩きが好きではなさそうだったが、紗雪と出かけるのが楽しい様子だった。

ルミはそれを思い出して何となく話題に出しただけだったのだが、紗雪は友人が結婚していない、という事にショックを受けたような顔を浮かべた。

「会ってない……え、本当に? だって、私が村を出る少し前に二、三年したら結婚するって……」

紗雪は雪乃に宛てた手紙に、弥生は元気か、もうアオギリ様と結婚したか、と以前書いて送った。そういえば、それに対する返事はその次に田舎から届いた手紙の中に書かれてはいなかった。そんな事を今更思い出して、紗雪は困ったように眉を下げた。

「私……私が、弥生の 縁(よすが) になるって言ったのに、勝手に東京行くって決めちゃって、誰か他の人にしてなんて言ったから……?」

「そこまでは知らないけど……気になるなら会いに行けば良いじゃない。ほら、もう今日は帰って会いに行ったら? そういうのは早い方が良いわよ」

「うん……」

ルミはさっさと紗雪を山から追い出そうと、帰った方が良いとしきりに勧めた。

紗雪はしばらく思い悩んでいたが、やがて顔を上げルミに礼を言った。

「ありがとう、ルミちゃん。私、帰ったらちゃんと弥生に会いに行ってくる」

決意を固めた表情でそう告げた紗雪に、ルミは笑顔で頷く。

「うんうん、それが良いわよ」

「あ、蛙は苔山で狩って帰るね!」

「そこは後回しにしないのね……」

当初の目的を、紗雪は忘れたりしないのだ。