軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

131:空の宿題

どこにでもありそうなオフィスの中で、その人はぼんやりと窓の外を見ていた。

年の頃は三十くらいか、もう少しいっているだろうか。顔色が悪く、目の下には濃いクマがあってひどく痩せている。そのせいか見た目からは年齢がはっきりしない。もしかしたら本当は、空が思うよりも大分若いのかもしれない。

空はその顔を見て、そして周りを見回し、その正体に気がついた。

トコトコと歩いて近づき、彼のすぐ隣に立つ。

けれど青年は何の反応も見せず、ただ窓の外を見ていた。窓枠に切り取られた、青空を。

「これ……きっと、まえのぼくだね?」

空は椅子に座ったその人の顔をじっと見つめた。その顔には見覚えがあるような無いような、不思議な気分だ。

鏡を見るのは髭を剃るときくらいだった気がするから仕方がないのかもしれない。それすらも時間に追われてまともに見ていた記憶も薄い。

「ぼく……なんか、さちうすそう……」

見るからに働き過ぎて過労死寸前というその風情に、空は何だか悲しい気持ちになってしまう。

空の存在に気付いているのかいないのか、瞬きもろくにしない彼の姿にため息を吐き、空はその視線の先に自分も目を向けた。

あるのはただ窓枠と青空。その青空だって、隣やその向こうのビルに切り取られ、見えるのはほんの僅かだ。

けれど空には、そうやって仕事の合間に外を見るかつての自分が何を思っていたか、何となく思い出せるような気がした。

「……こんなにてんきがいいのに、どうしてここにいるんだろう」

空が呟くと、青年の肩が微かに揺れた。

「こんなひに、そとをあるいたら、きもちいいだろうな」

青年の顔がゆっくりと空の方を向く。

「ああ、ここじゃない、どこかとおくへいきたい」

青年と、初めて視線があった。

空はぐっと歯を食いしばった。胸の奥から湧いた記憶と気持ちに、押し流されないように。

「ぼくは……ぼくは、ずっと、ここじゃないどこかにいきたかった。こんなせまくて、いきぐるしい、つまらないばしょをとびだしたかった。なのに、どこにもいけないとおもってたね」

青年がこくりと頷いた。そんな青年に空は微笑む。

(きっと君が、僕の宿題なんだね)

ならば、このかつての空だった男は、一体どんな未練を心に強く残したのか。

田舎に行きたい、スローライフがしてみたいという願いも嘘ではないが、心の一番奥底に残したものは、多分そんなことじゃなかったのだろう。

「……ぼく、こんなきおく、なくしたいって、ずっとおもってたんだよ」

空は痩せた男の顔を見ながら呟いた。

彼が暮らした世界と今空がいる世界は、見た目はよく似ているのに本当は全然違っていて、そのせいで空はずっと驚いたり怯えたり、そんな事ばっかりだ。

「はっきりおぼえてないし、やくにたたないし。そのせいでぼくはこわがりだし……じゃまだっていつもおもった」

その言葉に、青年が少し顔を曇らせたような気がしたが、空は続けた。

「でも……でもいまは、あってよかったって、おもってる。だって、ぼくのなかにまえのぼくがいたから、ぼくはアキちゃんをたすけられた」

もし空が今の空でなかったなら、消えようとする明良を前にしてもきっと何も出来なかっただろう。

それどころか明良を助けに行くことも思いつかず、年相応の子供らしく、今頃誰も帰ってこない家でぼんやりと留守番をしていたかもしれない。

「ぼく……ぜんせのきおくがあって、よかった。ぼくのなかの、きみは、むだじゃなかった」

手を伸ばすと、青年は戸惑ったようにその手を見た。

空は気にせず膝に置かれた彼の手に触れ、その指先を握った。体温の低い、エネルギーが足りていない感じの冷たい手だ。

「……ぼくのこえがよくきこえるって、オコモリさまも、アオギリさまもいってたんだ」

たった今、空にはその理由がわかった気がした。

目の前にいる、恐らく空の前世だった男をじっと見つめる。

どこにでもいそうな風貌の、そんな男。気が弱そうで上司にものも言えない、仕事を押しつけられて家にも帰れない、辞めたいのに気ばかり使ってその勇気も出ない。

いかにもそんな悩みを抱えていそうな顔をしている。

今の空には、窓の外を見ていた彼がその胸の中に抱えていたであろう、本当の願いがわかる。

「ぼくは……ううん、きみはきっと、たすけてっていいたかったんだ」

日々に流され、押しつぶされて、どこにも行けず立ち止まったままで。

男だから、大人だから、社会人だから、会社に世話になってるから。

自己管理だとか自己責任だとか、そんな世に溢れる沢山の常識ぶった言葉に縛られ、そんな簡単な言葉一つ、口にすることができなかったのだ。

「おとなになったら……たすけてなんて、いっちゃいけないっておもってた。でもほんとうは、ずっとずっと、いいたかったんだ」

こんなに痩せ細る前に声を上げたなら、例えば実家に電話してそう言えたなら、きっと家族は手を差し伸べてくれたと思う。

けれどどうしてか、そんなことを言ってはいけないのだと思い込んでいた。

一度二度と我慢すれば、その思い込みと、何とかなったという気持ちに縛られ、ますます言えなくなった。

きっと世の中には、そんな人が沢山いるのだろう。

我慢しているのは自分だけじゃない。男も女も、子供から老人までも、この世の中では皆が当たり前に我慢している。きっともっと辛い人だっている。だから、仕方がないんだ。

そう思うこともまた、声を上げる妨げだったに違いない。

だけどそれはきっと、しなくていい、してはいけない我慢だったのだ。

空は両手で、青年の冷たい手をしっかりと握る。今の空の温度を分け与えるように、小さな手で。

「ぼくね、もういえるよ。だって、まだちいさいし」

この村に来てから、いや、来る前もずっと、空は家族や周りの人に沢山助けてもらってどうにかこうにか生きてきた。

「こわいのやだし、しんじゃうのもやだから、いつだって、ちゃんというんだ」

東京の大事な家族、雪乃と幸生、ヤナとフクちゃん。

明良や結衣や武志。善三や和義、アオギリ様やオコモリ様。

親しい人もそんなに親しくない人も、まだ名前を知らない人も、この村の人はいつだって空を助け、その成長を見守ってくれる。

「ここでは、だれもだめっていわないんだ……」

それどころか皆は、何かあったらちゃんと声を上げて助けを呼べと言っていた。

「だから、ぼくはもう、おとなになっても、きっとちゃんといえる」

どうしようもなくなる前に周りに助けを求める事を、空がためらう事はないだろう。

「そんなの、ぜんぜんわるいことじゃないし、はずかしくないもん。あんね、ぼくのたすけては、よくきこえるんだって!」

あはは、と空は笑う。空が言葉を紡ぐ度、男の表情が少しずつ和らいでいく気がした。

「そんでね、ぼくもぜったいぜったい、だれかをたすけるんだよ!」

だから、と空は青年の顔を見て、その黄色い瞳を真っ直ぐに見て囁いた。彼の姿を借りたもう一つの存在に向けて、心を込めて。

魂を繋げ、心を、願いを重ねる。それが必要なのだと空は何となく本能めいた感覚で理解していた。

「いって。たすけてって。ぼくもいう。ねぇ、ぼくをたすけて。ともだちになって。ぼくも、きみをたすけるから」

青年はしばらく黙っていた。それからぱくりと口を開きかけ、また閉じ、そしてまた開く。

やがて長い時間の後に、その喉の奥から、ずっと聞こえていたあの不思議な声がひそりと零れたのを空は聞き逃さなかった。

『……タスケテ』

「うん。たすけるよ。きみはもう、ナリソコネじゃない。ぼくの、あたらしいともだちだもん!」