軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第75話 系譜の空白

背後からの声に、俺は出口の手前で足を止めた。

振り返ると、若い女がこちらへ一歩踏み出していた。

ブラウンのロングヘアをサイドでまとめたハーフアップ。意志の強そうな瞳が、真っ直ぐに俺を見据えている。

その半歩後ろに、濃紺のジャケットを着た長身の男。磨かれた革靴が、協会のリノリウムの床に不釣り合いなほど上品だった。

「ん? なんですか?」

記憶を探るが、覚えがない。

「あ、あの、私以前あなたに助けられたことがあって」

女の声がわずかに上擦る。両手をスカートの横で握り締め、指先が白くなっていた。

――助けた?

「上野の路地裏で、探索者に襲われそうになっていたところを――」

『 自律進化(スタンドアロン) を付与された翌日、上野の路地裏で 白銀級(シルバー) の探索者三名を排除した時の女性です。―マスターは「ゴミ掃除」と認識していたため、覚えてないかもしれませんが……』

記憶の底を手探りしていると、ナビ子の補足によって映像が一気に鮮明になった。

腐った生ゴミの臭い。凍えるような秋の夜。壁際で震えていた女性と、這いずって逃げていった 男たち(ゴミカス) の背中。

「あぁ……あの時の。でも、よく覚えてましたね。あの時は暗かったし、顔なんてほとんど見えてなかったと思ってました」

女の目が、一瞬だけ揺れた。

何かを堪えるような、それでいて零れ落ちそうな瞳だった。

「忘れるわけありません!」

声が跳ねた。協会のロビーにいた何人かが、こちらを振り返る。

彼女は自分の声量に気づいたのか、唇を引き結んでから、絞り出すように続けた。

「……あの時、お礼を言いたかったんです。ちゃんと、ありがとうございますって。でも、声が出なくて。体が動かなくて。気がついた時にはもう、あなたの背中が見えなくなっていて」

指先が、スカートの裾を掴んでいる。布地に皺が寄るほど、力が入っていた。

「それからずっと探していたんです。上野のダンジョン周辺を歩いて、協会の窓口に通って。顔しか手がかりがなかったから、何度も空振りして……」

二ヶ月。顔だけを頼りに、か。

……律儀な子だなぁ。

「それはご丁寧にどうも。でも、あれはただゴミ掃除をしただけなので」

こうして、わざわざ足を運んで感謝を伝えてくれた。それだけで十分だ。

むしろ、いい歳したおじさんとしてはこそばゆい。

だが、彼女の表情は緩まなかった。

肩が小さく震えている。握り締めた拳が、太腿の上で白くなっていた。

俯いた顔が、ゆっくりと上がる。その瞳には、俺の「十分」とはまるで違う温度が宿っていた。

「……あの時、あなたが来てくれなかったら、私はどうなっていたか」

声は静かだった。けれど、その静けさの底に、重い砂利を踏むような低い振動がある。

「殺されていたかもしれない。もっとひどいことをされていたかもしれない。あの後、何日も眠れなくて、夜道を歩けなくなって、コンビニのシフトも変えてもらって――」

言葉が途切れた。

彼女は一度だけ唇を噛み、呼吸を整えてから、真っ直ぐにこちらを見た。

「本当に、私の人生を救ってくださったんです」

反論の余地を塞ぐような、静かな圧だった。

俺は口を開きかけて、閉じた。ゴミ掃除。俺にとっての名前のない一夜が、この子にとっては眠れない夜を何日も連れてきた事件だったのだ。

「だから、お礼をさせてください」

彼女はぺこりと頭を下げた。ハーフアップの毛先が肩から滑り落ちる。

背後の長身の男が、苦笑まじりに肩をすくめた。彼は口を挟まなかったが、その視線は見守るような色をしていた。

「いや、気持ちは十分伝わったから。お礼とかは別にいいよ」

いや、流石にね。当り前のことをしただけなのに、お礼とか。

一回り以上離れてる子から貰うわけにはいかんでしょ。

「お願いします!」

食い下がる勢いに、俺の腰が引ける。

ナビ子は腕組みをしながら、にやにやとこちらを見ている。

コイツ、ほんま。

『マスター。断っても無駄だと思いますよ。この方、マスターがダンジョンに潜っているのを見かけて、あちらのロビーで何時間も待っていたようですから』

なるほど、探索前に感じた視線の正体はこれだったのかと合点がいくと同時に疑問が浮かぶ。

(え、探索の間ずっと?)

『はい、いつ帰ってくるのかも分からないのにずっと』

え、最近の子ってそうなの?

気合いが入り過ぎでは?

さっきまでなら、適当にはぐらかして帰れた。

だが、あの震える肩と、眠れなかった夜の話を聞いた後だ。ここで「いや、結構です」と背を向けるのは、さすがの俺でも喉を通らない。

「……分かった。じゃあ、少しだけ」

凛の顔がぱっと明るくなった。さっきまでの張り詰めた空気が嘘のように、年相応の表情が戻る。

「あの、焼肉とかでもいいですか? こういう時、何がいいのか分からなくて……」

焼肉。

即座に脳裏に浮かんだのは、冷えたビールと白い煙の向こうに光る赤身の映像だった。探索帰りの空腹に、焼肉は反則だ。

「いいよ。好きなところで」

凛が案内してくれたのは、協会から歩いて五分ほどの焼肉屋だった。

カウンター席ではなくボックス席。テーブルの排煙ダクトが低い唸りを上げている。

俺と向かい合わせに座った彼女は、メニューを開いて丁寧に渡してくる。

「ありがとう、えーっと」

「あ、すみません。自己紹介がまだでしたね。 渚凛(なぎさ りん) です。大学三年生で……えっと今は休学して、専業の探索者をしています」

「湊 啓介です。専業探索者をやってます」

互いにペコリと頭を下げながら自己紹介をして、ふと気づく。

――大学生の女の子に、おじさんが焼肉を奢ってもらう。

絵面として、色々とまずくないか?

(なぁナビ子。これって何かしらの法律に触れたりしないよな?)

『法律違反ではありませんが、絵面は問題です』

即答。慈悲もない。

……まあいい。トイレに立つふりでもして先に会計を済ませれば、いいだけだ。おっさんの沽券は保たれるか。

面子を守る算段がついたところで話を切り出す。

「そういえば、さっき一緒にいた男の人は?」

協会で凛の後ろに立っていた長身の男。ここへ向かう途中で「それでは自分はこれで」と一礼して去っていった。だが、俺のことを値踏みするような一瞥を残していったのが、少し引っかかっていた。

「通っている大学の探索部の人です。私の成長が早すぎるとかで、部に勧誘してくださっていて。今日も恩人探しに付き合ってもらっていたんです」

なるほど。あの目つきは、大事な後輩を見知らぬおじさんに預ける不安だったわけか。

そんなことを話しているうちに、注文した肉の皿が次々と運ばれてきた。七輪に火が入り、鉄格子の上でじわりと脂が焼ける音が立ち始める。

凛がカルビの皿を俺の前に滑らせる。遠慮なく一切れ掴んで網に乗せると、脂がじゅわりと弾けた。

三十二歳。実を言うと、去年あたりからカルビの脂がきつくなっていた。焼肉に行ってもハラミやタンなどのホルモンを食うのが定番コースで、同世代の連中も似たようなものだった。

なのに、今日は違う。一切れ目から脂の甘みが舌に広がって、胃がまるで抵抗しない。二切れ、三切れと箸が勝手に進む。二十代の頃の、あの底なしの食欲が戻っている。

(……なんだこれ。めちゃくちゃいけるぞ)

『種族進化の恩恵ですね。内臓機能も最適化されていますので、脂質の分解効率が一般成人よりも遥かに高くなっています』

ナビ子が事もなげに解説する。

おいおい、なんだよそれ。最高じゃないか!

異世界を渡り歩ける力より、カルビを無限に食える胃袋。 自律進化(スタンドアローン) 最大のメリット、ここに確定。

おいナビ子、ジト目で見るんじゃない。おじさんの胃もたれを知らないサポートユニットには分からないだろうが、重要なんだ。

「すみません、特上カルビと特上ロースを二人前ずつ追加で」

通りかかった店員に声をかけると、向かいの凛が目を丸くした。けれど、すぐにその顔がふわりと緩む。嬉しそうだった。遠慮なく食べてくれることが、彼女にとっては何よりの「お礼の受け取り」なのだろう。良い子だ。

だけどごめん、お会計はさせてもらう。

そんなくだらないことを考えながら四切れ目を頬張っていると、凛が少し改まった声で切り出した。

「さっきの話の続きなんですが……あの日、あなたに助けていただいてから、私は探索者になりました」

「そういえば、大学を休学して探索者やってるって言ってたね」

「はい。あの日、あなたの背中を見て、強くなりたいって思ったんです。誰にも脅かされない力が欲しいって」

俺は半開きの口をしばらく閉じられなかった。

普通ならトラウマになっても仕方ない事件。

なのにこの子は、あの出来事を原点にして探索者の道に踏み出した、と言っている。

「それで、一ヶ月と少しで 黄金級(ゴールド) に到達しました」

箸を持つ手が、止まった。

「……一ヶ月ちょっとで、黄金級?」

(なぁ、ナビ子、おかしいよな?)

『はい、異常です』

ナビ子が、俺にだけ聞こえる声で即座に割り込んだ。

『 黄金級(ゴールド) 到達の平均は、五年から十年。才能に恵まれた高速成長型でも、数年はかかります。それこそ、 自律進化(スタンドアロン) を付与されたマスターなら可能でしょうが……』

ナビ子の言う通り、ありえない速度。

「……すごいね。相当な努力をしたんだろうね」

「いえ、それが実は、運が良かっただけなんです」

凛は小さく首を振り、焼けた肉をひっくり返しながらぽつぽつと話し始めた。

浅層で天井に張り付いていた中層級の変異種を、崩落を利用して偶然倒したこと。

淡々と語る口調だったが、内容はとても「運が良かっただけ」で片付く話じゃなかった。変異種の前で恐怖に足を縛られながら、それでも頭を回して活路を切り開いている。配信者を撒くために深層に足を踏み入れる度胸も尋常じゃない。

俺もこの二ヶ月は濃い時間を過ごしてきたつもりだった。

だがこの子も、相当な時間を過ごしてきたんだな。

(やっぱり、皆何かしらの出来事に遭遇してるんだな)

『いえ。マスターと渚凛という個体が特殊なだけです』

忖度を知らないナビ子を無視して、凛と会話を続ける。

「まぁ、でも、ピンチを切り抜けて成長するってのは凄い才能だよ。俺みたいなおじさんが言っても説得力ないかもしれないけど」

少し自嘲気味に笑うと、凛が箸を置いて身を乗り出した。

「説得力、あります! すごくあります。だって湊さんは、あいつらを――」

言いかけて、凛は視線を落とした。あの路地裏を思い出したのだろう。だが、すぐに顔を上げる。

「私なんて、湊さんの足元にも及びません。あれからずっと努力してるんですけど、あの日見た湊さんに追いつける気がしなくて」

凛の視線が、網の上で焼ける肉に落ちる。

脂が弾ける音だけが、二人の間を埋めた。

「レベルだけがあがってるんです。でも、強くなるほどに……あの日の湊さんとの距離を、思い知るんです」

箸を置いた凛が、テーブルの向こうで姿勢を正した。

「湊さん。私を、弟子にしてもらえませんか」

正面から来た。

こうも直球で言われると、肉を飲み込むタイミングを完全に見失う。

視線には、迷いがなかった。

焼肉の煙越しでも、瞳の奥に灯った火が見える。

「探索部の先輩も良い方です。でも、あくまで組織の勧誘であって、私を導いてくれる『先生』じゃない。レベルが上がるたびに、自分がなんで強くなっているのか分からなくなるんです。足元が見えない。どこに向かって歩いているのかも」

系譜の空白、という言葉が頭に浮かんだ。

組織に所属する強者はいる。背中を追える先達もいるかもしれない。

けれど、この子には「お前はこうすればいい」と手を引いてくれる人間が、一人もいないのだ。

レベルが上がるほど、周囲との差が開くほど、孤独は深くなる。

その感覚は、俺にも覚えがあった。

七輪の炭が、ぱちりと爆ぜる。

脳裏に浮かんだのは、先輩の声だった。

――ガキが気にするな。先輩ってのはな、後輩に世話焼くために偉そうにしてんだよ。

探索者になりたての頃。右も左も分からない俺を、猪狩先輩は理由もなく拾ってくれた。

何度か「なんでこんなに良くしてくれるんですか」と聞いた。先輩はいつも面倒くさそうに頭を掻いて、同じ言葉を返してきた。

――今度はお前が先輩として、後輩を助けてやるんだよ。

先輩。あの時の言葉が、今頃になって効いてきました。

「俺は、普通の探索者とはちょっと違うんだ」

カルビを一切れ口に放り込み、咀嚼しながら言った。

特別だとは言わない。ただ、特殊ではある。

「だから教えられることには限りがあるよ? 俺のやり方は万人向けじゃないし、正直、誰にも勧められない」

「はい! 傍で教えてくださるだけで十分です!」

即答。またしても、一拍の間もない。

この子は、断らせる気がまるでない。

俺は箸を置き、額に手を当てた。

弟子だの師匠だの、本当は柄じゃない。

だが、凛の瞳に宿った火を見て、先輩の言葉を思い出してしまった以上、もう逃げ道はない。

「……分かった。ただ、弟子とか師匠とかは勘弁ね。年の離れた先輩、くらいに思っておいて」

「ほんとですか!?」

凛が身を乗り出し、テーブルが揺れた。七輪の上のカルビが踊る。

「あ、すみません」

「いいよ。あ、肉、焦げるよ」

俺が危機一髪のカルビをトングで救出する横で、凛は慌てて姿勢を戻し、けれど口元だけは抑えきれない笑みを浮かべていた。

「それで、凛ちゃんの武器は何使ってるの?」

聞いてから、ちゃん付けは距離が近すぎたかと内心焦る。だが凛は気にした素振りもなく、嬉しそうに答えた。

「バールです」

「……バール?」

「はい。湊さんが持っていた武器がバールだったので」

胸の奥で、妙にくすぐったい何かが込み上げる。

即座に蓋をした。

「まあ、教えやすくはあるか」

「よろしくお願いします、湊先輩」

凛が深々と頭を下げた。

連絡先を交換し、「探索者の先輩として指導すること」を約束する。

「ごちそうさまでした。お会計、お願いしま――」

「あ、それ、さっきトイレに行った時に済ませておいたから」

凛の動きが止まった。財布を握ったまま、ゆっくりとこちらを向く。

「……え?」

「もう払ってあるよ」

「いや、お礼をさせてほしいと言ったのはこちらなので! 湊先輩、それはおかしいです!」

「こういうのは先輩が払うもんなんだよ」

スマートに決めたつもりで、内心では盛大に安堵していた。

――女子大生に金を払わせるヤバいおじさんにならなくて、本っ当に良かった。おじさんの沽券、無事に保たれたぞ。

『んー、でもマスター。おじさんが女子大生に焼肉を奢って連絡先を交換しているのも、それはそれでなかなかヤバい絵面だと思いますが』

ナビ子の声が、俺の鼓膜だけを正確に刺す。

……確かに。

凛に別れを告げ、夜の上野を歩く。

秋の風が首筋を撫で、焼肉の煙の匂いがまだ服に染みついていた。