作品タイトル不明
第66話 おじさんと、スタンピード
「……なに、この音。耳障りね」
エレオノーラが眉間に皺を寄せ、白磁のような指で耳を塞ぐ。
だが、先輩夫婦の反応は違った。
先輩が箸をカチャン、と音を立てて卓上に置く。
沙織さんの顔からは急速に血の気が引き、スマートフォンの画面を握りしめる指関節が白く浮き上がっていた。
翔太君でさえ、母親の服の裾をギュッと掴み、怯えたように視線を彷徨わせている。肌で感じる「異常」に、小さな体が粟立っているのだ。
テレビ画面が明滅し、高ランク探索者の特集が途切れた。
代わって映し出されたのは、毒々しい赤色のテロップとニュース特番だ。
ヘルメットを被ったアナウンサーの、悲鳴に近い声が鼓膜を打つ。
『先ほど14時20分頃、山梨県南部にて大規模な魔素反応が観測されました! 発生地点は「富士の樹海ダンジョン」! 繰り返します、富士の樹海ダンジョンです!』
画面が切り替わり、日本地図が表示される。
山梨県を中心としたエリアが、赤黒く脈打っていた。
その横に表示された予測数値を認め、喉の奥が引きつる。
『予測される魔災等級は「G3」! 広域災害級です! 近隣住民の方は直ちに指定のシェルターへ避難してください! 移動が困難な場合は、頑丈な建物に立て籠もり、決して屋外には出ないでください!』
G3。
その単語が網膜に焼き付いた瞬間、胃の腑に重い鉛を流し込まれたような圧迫感を覚える。
スタンピードの規模を示す魔災等級は5段階あるが、過去32年で『G5』は一度も観測されておらず、『G4』も一回のみ。
つまり、実質的に国内で発生しうる『最上位の災害』だ。
核として出現する魔物は 秘銀級(ミスリル) 相当。軍隊が一個師団単位で動かなければ、地図から街が一つ消える。
「G3って……おいおい、マジかよ」
先輩の背中が、力なくソファへ沈んだ。
G3クラスのスタンピードが発生するのは、国内でも十年に一度あるかないかだ。
よりにもよって、俺が帰ってきた日にこれかよ。
「……あっ」
その時、沙織さんの喉が小さく鳴った。
口元を手で覆い、指先が小刻みに震え始めている。
「沙織?」
「葵ちゃん。この前『実家に帰って鍛え直す』って連絡があったの……」
「それがどうした?」
「彼女の実家、山梨なの」
誰かの吐いた息が、凍りついたように静止する。
肌を刺すような沈黙が、場を支配した。
「もしかして、もう山梨に?」
「わ、わかりません……。でも、もしかしたら」
沙織さんがもつれる指でスマホを操作し、メッセージアプリを開く。
そして、絶望に染まった瞳を俺たちに向けた。
「だめ……。湊さんが無事だったことを伝えたメッセージ、まだ既読がついてない……」
送信時刻は今日の午前中。
ただ、スマホを見ていないだけならいい。
だが、最悪の想像が脳裏をよぎる。
電波の届かない場所――ダンジョンの中にいる可能性。
「……舟木さんが巻き込まれているかどうかは別にしても、行きますよ」
俺は短く告げ、立ち上がった。
『流石です、マスター』
脳内で、ナビ子の満足げな声が響く。
俺自身、正義感に燃えるヒーローという柄じゃない。
だが、スタンピードは別だ。
鼻孔の奥で、焦げ臭い匂いが蘇る。幼い頃、俺も大規模なスタンピードに巻き込まれたことがある。視界を埋め尽くす瓦礫の山、耳をつんざく悲鳴、そして理不尽な暴力に蹂躙される無力感。あの時の光景は、今でも悪夢として枕元に立つ。
今の俺には、力がある。
なら、動かない理由はない。
「よし、俺も行く!」
腰を浮かせた先輩を、俺は手で制した。
「先輩はここにいてください。何が起きるか分かりません。家族を守るのが先決です」
「だ、だけどよぉ……!」
「これを持っていてください」
俺は右手を虚空にかざす。
収納機能(インベントリ) から取り出したのは、虹色の光を内包した拳大の美しい石だ。
それを軽く放り、先輩に渡す。
聖域の結界石(サンクチュアリ・バリアストーン) 。
異世界で手に入れたレジェンダリーアイテム。
「魔力を込めれば結界が展開されます。 秘銀級(ミスリル) クラスまでなら防げるはずです。万が一、ここまで被害が及んだ時は使ってください。先輩、周りを守るのとか得意じゃないでしょ?」
「湊……」
先輩の手が、石を強く握りしめる。
やがて、彼は悔しげに、けれど力強く頷いた。
「……分かった。こっちは任せろ。お前も、死ぬなよ」
「えぇ、今の俺はしぶといですよ」
軽口で返し、窓の方へ向かう。
と、背後から衣擦れの音がした。
「私はついていくわよ?」
エレオノーラだ。
当然のように隣に並び立ち、鮮血のような唇に不敵な笑みを浮かべている。
「足手まといにはならないでしょう?」
「……まぁな。戦力は多い方が助かる」
問答している時間はない。
彼女の実力は折り紙付きだ。性格に難はあるが、これほど頼もしい味方もいないだろう。
(ナビ子、山梨への移動手段はあるか? 行ったことない場所だけど)
『問題ありません。マスターの魔力と私の演算能力があれば、座標指定による長距離転移が可能です。テレビの映像から座標を特定しました』
(さすが、優秀な相棒だ)
俺はエレオノーラの華奢な肩に手を置いた。
「よし、行くぞ。モンスターが湧いてる外殻部分に転移する。人間に被害が出ないように気をつけてくれよ、エレン」
「えぇ、任せて。ミナトに私の力が役に立つところ、見せてあげるわ」
視界が白く塗りつぶされる。
重力が反転するような浮遊感と共に、俺たちの姿はリビングから掻き消えた。
◇
世界が再構成されると同時、濃厚な森の香りが鼻腔を犯した。
次いで、鉄錆に似た生臭さ――血の匂いが漂ってくる。
眼前に広がっていたのは、地獄の入り口だった。
場所は樹海の入り口付近、観光客向けの駐車場だろうか。
アスファルトは無残にひび割れ、亀裂から異界の植物が触手のように侵食している。
「グルルルルッ……!」
「キシャアアアアッ!」
視界を埋め尽くすのは、異形の群れ。
鋼のような毛並みの狼、軽自動車ほどもある大蜘蛛、そして粗末な武器を手にしたオークのような亜人種。
本来ならダンジョンの闇に潜むべき魔物たちが、白昼堂々と陽光の下を闊歩している。
(発生から数分……にしては、数が多すぎるな)
『まだ核となる 魔物(ロード) は顕現していません。ですが、先行して溢れ出した魔物だけでこの有様です』
ナビ子の報告通り、まだ決定的なボスはいないようだ。
だが、それでも十分すぎる脅威だ。
周囲では、逃げ遅れた新人探索者を守るように、数パーティの探索者たちが必死に防衛戦を展開している。
しかし、多勢に無勢。包囲網がじりじりと狭まり、絶望の色が濃くなっていく。
「まずは、あいつらを助ける。エレン、攻撃するなよ」
「分かってるわよ!」
俺は右手を虚空にかざした。
イメージするのは、かつて俺を苦しめたエレオノーラの「アレ」。
自分の魔力を、小さな球体に極限まで圧縮し、自律制御させる。
「 魔弾展開(マナ・バレット) 」
鋭い風切り音が鼓膜を打つ。
直後、俺の背後に無数の青白い光球が出現した。
その数、およそ五十。
低い唸りを上げ、まるで衛星のように俺の周囲を浮遊する。
(ナビ子、敵性反応をマーキングしてくれ。交戦していない、もしくは余裕のない敵を優先しろ)
『了解。ターゲット、36体を捕捉』
視界の中、魔物たちに赤いマーカーが重なる。
俺は指先を指揮者のように振った。
「――穿て」
光球が青い軌跡を描き、対象へと殺到する。
それは正確無比な死の雨だった。
探索者に飛びかかろうとしていたウルフの頭部がトマトのように弾け飛び、魔法を唱えようとしていたオークの喉に風穴が空く。大蜘蛛の関節が粉砕され、自重を支えきれずに崩れ落ちる。
「……ッ」
「ガアッ!?」
魔物たちの断末魔が重なる。
「……す、すげぇ」
一瞬で周囲の敵を一掃した俺を見て、助かった探索者たちが呆然とこちらを見上げていた。
隣で見ていたエレオノーラが、驚いたように目を丸くしている。
「これって、私の……?」
「あぁ、すまんな。便利そうだったから真似させてもらった」
「……」
怒るかと思ったが、エレオノーラはふいっと顔を背け、口元を隠した。
その白磁のような耳朶が微かに赤く染まっている。
勝手にパクったことに……切れているのだろうか。
「……ふん。私の技を使うからには、下手な真似は許さないわよ」
「はいはい。精進しますよ」
(廃棄地域のモンスターで練習しといてよかったな)
『いや、普通は練習したくらいで習得できる技術レベルではありません。システム補助なしの 完全手動(フルマニュアル) で再現するなんて、呆れてものも言えませんね』
ナビ子の声には、半ば本気で引いているような響きがあった。
こういう顔をしているときは、大抵ろくでもないことを考えている。俺は知っている。
俺たちは戦場を風のように駆け抜ける。
余裕を持って対処できている探索者の獲物はスルーし、対処しきれていない、あるいは背後から奇襲を受けそうな魔物だけを、空からの魔弾で的確に狩っていく。
いわゆる横殴りにならないギリギリのラインでの援護射撃。
「っと、あっちは任せた!」
「えぇ!」
エレオノーラの指が鳴る。
パチンッ、と乾いた音が響くと同時、苦戦していた探索者たちの体に金色の光が宿った。
動きが鈍っていた重戦士の筋肉が隆起し、嘘のような速度で盾を振り回す。突進してきたオークが、逆に紙切れのように弾き飛ばされた。
「うおっ!? なんだこれ、体が軽い!?」
「魔力が溢れてくる……! いける、これならいけるぞ!」
エレオノーラの支援魔法だ。
攻撃魔法だけかと思っていたが、どうやらバフ・デバフの類も使えるらしい。
俺が殲滅を担当し、彼女が戦線の維持を担当する。
即席のコンビだが、歯車が噛み合うような心地よさがあった。
「お前、全然狩ってないじゃないか」
「い、いや、貴方が全部狩っていくから、手を出す暇がないのよ!」
エレオノーラが心外だと言わんばかりに抗議してくる。
「それに、今は彼らの支援をした方が効率的でしょう?」
「まぁな。……へぇ、そんな器用なことできたのか」
「えぇ、まぁ……。いつも一人で潜っていたから、あまり役立つ場面はなかったのだけどね」
少し寂しげに笑うエレオノーラ。
ソロでの探索が長かった彼女にとって、支援魔法は埃を被った「無用の長物」だったのかもしれない。
「自分にバフをかけたりできないのか?」
「それはできないみたい。他者にしか作用しない術式なの」
「へぇ……。見てる感じ、できそうだけどな」
「? どういうこと?」
俺の言葉に、エレオノーラが不思議そうに小首を傾げる。
俺は詳しくは答えず、「まぁ、そのうちな」と誤魔化した。
広場周辺の魔物は粗方片付いた。
周囲には魔物の死骸が積み重なり、生き残った探索者たちが安堵の息を漏らしている。
だが、俺の胸に去来するのは、冷たい違和感だけだった。
(……いないな)
助け出した探索者たちの顔を、一人一人確認していく。
知らない顔。知らない顔。知らない顔。
……いない。
どこにも、舟木さんの姿は見当たらなかった。
となると、残る可能性は一つ。
「ダンジョンの中、か……」
視線を、樹海の奥――ダンジョンの入り口へと向ける。
そこは、黒い口を開けて獲物を待ち構えているようだった。
最悪の事態、「内部被災」の四文字が、脳裏に重くのしかかる。