作品タイトル不明
第88話 何も大丈夫ではない
「どれだけ薬の影響を受けようと、一日、二日程度で完全に抜けるから、そこまで深刻に考えるものではないだろう」
『惚れ薬』の鑑定をしてくれた講師は空になった小瓶をまじまじと見つめながらそう言った。
その脇ではこっぴどく叱られたダニエル様が深く項垂れている。
「リヴァロル嬢の話を聞くに、薬を被った生徒はこの作用の影響をそこまで受けないような人物だとは思うが、万が一生活に支障を来たしてしまった場合には、一応早々に薬の効果を消す方法もある」
ヴィーの『剣術バカ』は表向きの顔だが、裏の顔はより理性的で紳士然としている事も私は知っている。
薬を被った直後の彼の顔は緊張と申し訳なさからあまり直視できなかったが、恐らくは薬の効果に翻弄されるような人物ではないだろうと踏んでいた。
(壁に押しやられた時はもしかしたらと思ったけれど、結局何もなかったし。それよりも……気分を害していないかが心配だわ)
鋭い視線や私の手を振り払った姿、そして颯爽と遠ざかっていく背中。
それらを思い返しながら私は彼の怒りを買ってしまった可能性を憂いていた。
「念の為、お伺いしても?」
「……あー」
ヴィーに薬を掛けてしまったのは私なのだから、万が一に備えて出来る限りの知識は持っておくべきだろう。
そう考えた私が講師に尋ねれば、相手は何故か突然言葉を濁らせた。
「その、婚姻前の異性に出来る事は少ないだろう」
「は、はぁ……。ですが、今回の件は私の不注意のせいでもありますし、少しでも何か出来る事がありそうなら把握しておくべきではと」
「ううむ」
何とも煮え切らない講師の返答に私が首を傾げていると、隣に立つアンセルム様と目が合う。
彼もまた不思議そうな顔で首を傾けていた。
互いに見つめ合いながら首を傾げ合う私達と、言い淀む講師、首をすぼめながら繰り広げる会話を見届けるダニエル様。
やがて妙な空気に包まれた中、講師は一つ、大きな咳払いをした。
「その、要は満たしてやればいい訳だ」
「満たす、というのは……愛情といった類ですか?」
「ああ、うん、うん。平たく言えばそうだな」
惚れ薬が、潜在的な好意を引き出すというのならば、薬の影響を受けた人物は普段よりも相手からの愛情に飢えているとも言える。
講師の話す解決策は、確かに一理あるのかもしれないと思った。
……妙なのは、何とも歯切れの悪い講師の返事と肩身狭そうに視線を泳がせているダニエル様の様子だろうか。
「その、だな。この大馬鹿者は調合の際にうっかり催淫作用が強く出やすい植物を用いたらしく」
「さ……さい、いん……?」
講師の言葉の意味が分からない訳ではない。
ただ、あまり聞き馴染みがなく、あまりにもヴィーとは結びつかない言葉過ぎて、すぐに聞いた言葉とその意味が結びつかなかったのだ。
隣では、何かに気付いたアンセルム様が、ここまで貫いていた真剣な面持ちに大きな焦りを浮かべ始めていた。
確かに衝撃的な言葉ではあった。焦るのも無理はないだろう。
だが、私の頭は意外にも冷静だった。
(なるほど……。ならやはり、ヴィーにはあんまり影響がなさそうね、よかった)
長年付き合ってきて、そういう欲の気配を彼から感じた事は全くない。
恐らくはそういう概念を理解する前からの付き合いであるが故に今更抱き辛い感情なのだろう。
やはり、この惚れ薬はヴィーを苦しませる事はなさそうだと私は安堵した。
「ああ。だからこそ満足させるというか発散させるというか」
「っ、先生、先生」
神妙な面持ちの講師の言葉を遮ったのはアンセルム様だった。
彼は咄嗟にといった様子で私の両耳を塞ぎ、首を横に振った。
「……これ以上は」
「あ、ああ」
くぐもった声が、彼の手の隙間からわずかに聞こえる。
まるで初心な子供に聞かせるべきではないとでも言いたげなその大袈裟な振る舞いが、少しだけおかしいと思ってしまう。
「アンセルム様。何も焦る事ではないでしょう。私とて成人した女なのですから、今更可愛らしく焦るような心だってありませんし」
「ニコレット嬢……」
「大丈夫です。まあ、そんな事はないとは思いますが、もしもの時は」
アンセルム様がゆっくりと私の耳から手を離す。
私は彼を安心させるように少しだけ胸を張って、力強く言ってみせる。
「彼の心を満たしてあげるべく、沢山甘やかしてあげれば良いのですね……!」
「…………ニコレット嬢?」
僅かに安堵したようなアンセルム様の顔から、瞬く間に活気が消えていく。
途方に暮れたと言わんばかりの表情の理由も、何かを悟ったように頭を抱える講師やダニエル様の反応も見当がつかず。
何か変な事を言ったのだろうかと、私は目を丸くする事しか出来なかった。
***
さて。そんなこんなで『彼なら大丈夫だろう』とどこかで高を括っていた翌日。
昼休憩に姿を見せたアンセルム様からヴィーの欠席とその理由が発熱である事を聞かされ、放課後に私はアンセルム様と共にアルナルディ伯爵家のタウンハウスを訪問する事となった。
馬車を降り、門番の前で身元を明かせばその場で待たされる。
どうやら公務の都合で丁度、ベルナール様が滞在しているようで、彼に繋げてくれるようであった。
(それにしてもまさか、本当に体調を崩すなんて……)
昨日の今日だ。
昨日のヴィーの様子が少なからずおかしかった事もあるし、流石に薬のせいを疑わずにはいられない。
だとすれば、私のせいで彼は体調を崩した事になる訳で。
想定外の事態に対する驚きもあったが、それよりも罪悪感が勝っていた。
「……ニコレット嬢」
発生した待ち時間の中、気落ちしている私をアンセルム様が呼ぶ。
「何かあれば俺が間に入りますが、くれぐれもあいつを刺激するような事はしないでくださいね」
「そんな、獣を相手にするような言い方」
「いや、あいつは……」
あまりに大袈裟な物言いに思わず苦笑するも、アンセルム様は冗談を言っているような様子ではなく、どこまでも真剣な表情だった。
「…………獣と大差ないと言っても過言ではありませんから」
続いて小さく呟かれた言葉が上手く聞き取れず聞き返すも、彼は「何でもありません」と首を小さく横に振るだけだった。