作品タイトル不明
第67話 襲い掛かる危機
ラガルドは堂々と研究棟の入口を潜る。
その後方では、監視の騎士らが何も気付いていないかのように平然とした様子で自分の持ち場での監視を続けていた。
堂々とした足取りで廊下を突き進むラガルドは、時折研究員や権限が必要な区域の監視と出会ったが、持っていた『夢の香霞』によって相手の意識を次々と掌握した為に、彼の足を止められる者はいなかった。
***
少し時は遡り、ニコレットとシャルルの待ち合わせ時間の十分ほど前。
テレーズの研究に絡んだ薬品入りの小瓶や重要な資料を詰め込んだ、錠前付きのチェストを確認していた。
(最も守らないといけないものはここに詰めてあるし、鍵やチェスト自体に不備もなさそうだ)
「全く、本当に心配性だねぇ」
チェストの確認をしているシャルルの背後でテレーズがのんびりと話す。
その気の抜けるような声に、シャルルは苦く笑った。
「先生には、是非ともオレ以上に危機感を持って頂きたいんですけどね」
「えー?」
テレーズはというと、研究を休みにした事で余った時間を使い、研究室の片づけを始めていた。
彼女は部屋の隅に積み上がっていた木箱を手前に引きずり、長い息を吐く。
「ねぇー、シャルル君」
よく聞き慣れた声音と口調。
テレーズからこういう呼ばれ方をする時は大抵、くだらない用件なのだとシャルルは把握していた。
だからこそ彼はチェストに注意を向けたまま、適当な返事を返す。
「何ですかー? お茶が欲しいとかなら、少しだけ待って――」
そう言いながら、しゃがんでいた腰を上げた時の事だった。
シャルルは左の横腹に軽い衝撃を覚える。
「え」
一瞬、何が起きたのかを理解できなかった。
シャルルは目を丸くしながら身を捩り、衝撃を受けた箇所へ視線を落とす。
真後ろにはいつの間にかテレーズが立っていて、彼女は両手を小さな柄から離す。
そして彼女が握っていた柄の先はシャルルの脇腹に深く突き刺さり、赤黒く光る血が滴り落ちていた。
「――な」
シャルルの顔から血の気が引いていく。
腹部の燃えるような痛みを自覚すると同時、シャルルの体は為す術もなく崩れ落ちる。
「ごめんね」
そう囁くテレーズの顔には何の感情も存在しない。
空虚な瞳が冷たく、シャルルを映していた。
――警戒すべきは外部の者だけではない可能性があります。
前日、自分にそう忠告した令嬢の姿をシャルルは思い出した。
内部犯の可能性。
ニコレットの忠告に従い、シャルルはその可能性を確かに警戒していたはずだった。
だが――
「ど、して……」
床に伏すシャルルの言葉にテレーズは答えない。
彼女はただ、当然知っているチェストの鍵の在処から鍵を取り出し、それを開ける。
シャルルはそんな彼女の様子を見ている事しかできなかった。
(研究の内容の漏洩や盗難をオレは危惧していた。だが、当事者がそれらを持ち出すというのならそれは最早盗難ですらない。そもそも……何故、テレーズ先生自身が研究を持ち出そうとする? 彼女は親父に買収されるような人でも、協力するような人でも絶対にないのに――)
大きな混乱に突き落とされたシャルルの頭を疑問が埋め尽くす。
その最中。
彼の視界の端で眩い光が発生する。
先程までテレーズが移動させていた木箱のあった位置。
シャルルはそこに魔法陣が刻まれている事に気付いた。
(転移魔法陣……っ)
恐らくはニコレットとの密会など、シャルルが部屋を離れている際にテレーズが手掛けたものなのだろう。
魔法陣の発動を示唆する光が強まる中、一人の男が姿を現した。
その見覚えのある姿に、シャルルは鋭く息を吸う。
「全く、本当に手の焼ける愚息だ」
その人物は俯せに倒れたシャルルの目の前に立ち、醜い笑みを浮かべる。
「大人しく従いさえすれば……我が家の繫栄を信じさえすれば、こんな事にはならなかったものを」
その人物こそ、自分を家へ呼び出し、研究棟の裏切者となるよう唆した人物だ。
「ッ、クソ親父……ッ」
シャルルは怒りを剥き出しにし、フォンタニエ伯爵を睨みつけたのだった。
***
私は急いで研究棟の正面まで駆け付ける。
そして、あまりに代わり映えしない光景に拍子抜けしてしまった。
誰も焦りを見せず、ただただ監視としての仕事を全うしている。
騒ぎ一つ起きていなかった。
私は乱れた呼吸を整えながら周囲を見回す。
(……騎士の様子に変わりはない。なら、私やシャルル様が警戒していたあの魔法陣は使われていなかったという事? であるならば……研究棟内部に本命の魔法陣が刻まれているのかもしれない)
たとえ、騎士達が何も気付いていないのだとしても、シャルル様が約束の時間に訪れなかったというイレギュラーが発生した事は変わりない。
研究棟では既に何かが起きているはずなのだ。
「ねぇ、貴方」
私は近くにいた騎士へ声を掛ける。
今の研究棟には危険が潜んでいるかもしれない。
一人で飛び込むのではなく護衛を付けるべきだと判断したのだ。
私の声に気付いた騎士が、こちらを見る。
その時だった。
私の鼻を甘い香りが擽った。
(……? 何か、甘い匂いが――)
騎士が持ち歩く香水にしては不自然な、独特な香りだった。
それに疑問を持ち、注意が逸れた、次の瞬間。
私の視界に影が差す。
「――え」
声を掛けた騎士がすらりと剣を抜いた。
無表情で、淡々とした動作で持ち主によって抜かれた刃は、私の頭上に振り上げられていた。
突然の事に理解が追い付かず、私の頭は真っ白になる。
そして、その剣は無慈悲にも
――私へと振り下ろされたのだった。