軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ヒエロニムスの戦略的な晩酌(前篇)

帝国において一つの都市を防衛する衛兵隊の経理担当が管掌する職務の範囲がとても広いことは、あまり知られていない。

私、ヒエロニムスが衛兵中隊の経理を預かっている古都アイテーリアのような帝国直轄都市ともなればその業務の広範さは驚くほどになる。

経理、会計とそれらの記録はほんの手はじめに過ぎない。

兵站、輜重、補給。

募集、試験、採用、初歩の教育。

様々な郵便物の処理や伝達事項の確認、通達、布告、その他もろもろ。

古都の衛兵聯隊には読み書きのできる人間が少ないので、取り調べの記録も経理担当者が受け持つことになる。

最近では、ひったくりや痴漢、暴行の犯人が勝手に自首してくるという“怪事件”もあるので、こちらの取り調べも火の付いたように忙しい。

イーゴンはこの難事件の解決に総力を挙げるべきだと息巻いているが、聯隊の上層部は、犯人が楽に検挙できるのであれば放っておいてもいいのではないかという考えだ。

それにしても、経理担当者は忙しい。

多忙であり、替えの人材の探し難い職務であるから、一般の衛兵よりもそれなりに多くの給金を貰ってはいる。しかし、それでも離職率は高い。

あまりにも多くの仕事が人々の心を疲弊させるのだ。

けれども、激務とうまく付き合うための秘訣を、私は知っている。

〈人は王侯貴族に生まれることはできずとも、自分自身の主人となることはできる〉

何かを上手くこなせた日。

気に入らないことがあった日。

そして、労うに足るだけの働きを達成した日。

こんな日には、自分自身を統べる王として、臣下である自分自身に褒美を取らせるのだ。

褒美の種類は多岐に渡る。

寝床へ入る前に口にする果物の砂糖漬けを一つ多めに食べるとか、蝋燭を節約するために普段は禁止している夜の読書を自分に許すであるとか、懐に余裕さえあれば、もう少し公序良俗に反する種類の愉しみのために夜の街へ繰り出すこともいいかもしれない。

しかし今日の私の心は、既に決まっていた。

居酒屋ノブ。

〈鬼〉の異名を取る元傭兵のベルトホルト中隊長から教わった、とっておきの居酒屋へ行く。

自分を甘やかそうと思ったのには理由がある。

面接だ。

アイテーリアは今、大きく発展しようとしている。

それが故に、市参事会は先回りして衛兵隊を増強するための予算を承認した。

賢明な判断だと、私ヒエロニムスも諸手を挙げて賛成したことは言うまでもない。

普段はあのゲーアノートがしっかりと財布の口を閉めているせいで訓練場の修繕費さえ出し渋る市参事会がよくぞ、と思う。

街が大きくなってから慌てて衛兵を増やしたのでは、訓練の時間も確保できない。

私の曽祖父は商人だったが、その遺言は〈備える者は幸いである〉だったという。

優秀な商人として知られた用意周到な曽祖父は生前から自分の葬儀と棺桶と墓石までしっかりと準備していたというから、有言実行というのはまさにこのことだ。

市参事会は讃えるべきである。そのことは問題がない。

問題となるのは、事業を拡大する際に負担の増大する裏方への配慮が欠けていることだ。

今回の面接に訪れた連中は、素性がよろしくない。

北方三領邦から召し放たれた傭兵などはまだ上等の方で、バッケスホーフ商会が元々抱えていた破落戸共や、農村から当てもなく古都へ転がり込んできた農民の五男坊、六男坊。ひどいところになると、食い詰めた河賊まで交じっている始末だ。

この河賊が、問題だった。

なにせ数が多い上に条件が折り合わない。衛兵中隊の経理担当程度ではどうしようもない要求を平気でぶつけてくるのだ。

家族の住む家の手配は、こちらの仕事ではない。

お陰で随分と疲弊させられた。

こんな日は、一杯飲むに限る。

そういう次第で、居酒屋ノブを訪れたのだ。

黒髪の女給仕シノブの「いらっしゃいませ!」という気持ちのよい挨拶を受けて、引き戸を潜る。

何度か訪れてその度に不思議に思うのは、この店の明るさは何なのだろう。

獣脂の蝋燭を灯した時のような悪臭はないし、蜜蝋であればとんでもない費用がかかるはずだ。

毎回首を傾げるのに、店を出る頃には気にならなくなっているのも不思議な話だった。

妖精(アールヴ) か何かに化かされたような気分だが、それでもまた訪れるのは、ここが最高に素晴らしい店だからに他ならない。

本当なら、もっと頻回訪れたいという気持ちはある。

だが、それをしないのも私の流儀だった。

「ご註文は何になさいますか?」

「トリアエズナマと、アキナスのツケモノを」

リオンティーヌの手早く運んできたトリアエズナマに、意識を集中する。

これ、この一杯だ。

よく冷やされたガラスのジョッキに満ちた黄金色の液体。

毎晩でも口にしたいこのトリアエズナマを控えるのは、“特別な一杯”を“究極の一杯”に高めるための私の策だ。

人間は、弱い。そして、罪深い生き物だ。

どんな至高の快楽にも、毎日触れ続ければいずれ飽きてしまう。

だからだ。だからこそ、居酒屋ノブには滅多に訪れない。

自分自身に対する褒美を、最高の状態に保つためには致し方ないことなのだ。

呼吸を整え、ジョッキに口を付ける。

ぐびり。

ぐびり、ぐびり。

美味い、というよりも、幸せだ。

これで今日という一日が終わりを告げたという、確かな実感。

喉奥へと流れ込む黄金の河の奔流が、 生業(なりわい) の憂いを洗い流す。

双月の神よ、天の国はアイテーリアの〈馬丁宿〉通りにこそありました。

さて、同僚のイーゴンであればここで一気にジョッキを干すであろう。

それもまた、よし。

しかし私は別の道を選ぶ。

酒精で舌が鈍らぬ内に、料理も堪能するのが、ヒエロニムス流だ。

オトーシとして出されたのは、イカとダイコンのニツケ。

実に素晴らしい味だ。

柔らかく煮込まれたイカと、その旨みを十分に吸ったダイコンの織り成す、攻守の均衡が取れた布陣は正に、精鋭の一皿と言って過言ではない。

シノブの運んできてくれたアキナスを一つ摘まみ、ゆるりと店内を見回す。

そう、ここからが本番だ。