軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

居酒屋接待の夜(後篇)

「それでは、こんなものはどうだろう」

少し前、さる諸侯の姫君が帝国の名家へと嫁ぐことになった。

姫君は親戚を試すような無理難題を吹っかけ続けていたが、ふと入った店の料理人がその願いをいとも簡単に叶えてしまった、という話だ。

姫君も親族もそれを喜び、幸せな結婚式を迎えた、という。

この料理についての物語は広く流布し、東王国の貴族たちも是非味わってみたいと探し回ったのだが、ついに手掛かりさえ見つからなかった。

「では、註文だ。臭くなくて辛くなくて酸っぱくなくて苦くなくて固くなくてパンでも芋でもお粥でも卵でもシチューでもない美味しいもの、というのはどうだろうね」

挑発的なミシェルの視線に、黒髪の料理人と女給仕が顔を見合わせる。

それはそうだろう。

こんな無理難題、生半な腕の料理人にはどうすることもできない。

さて、あまり虐めるのも可哀そうだ。なにか別のものを註文するか、とミシェルが口を開こうとすると、黒髪の給仕、シノブが満面の笑みで答えた。

「餡かけ湯豆腐ですね! 確かに今日は少し肌寒いですもんね!」

アンカケユドーフ。

そう、料理の名は、アンカケユドーフだった。

しかしその名は東王国の貴族でさえ一部の人間しか知らないはず。

それをどうして場末の居酒屋の女給仕風情が知っているというのか。

「あ、ああ。そうだ。アンカケユドーフ。それを頼む」

慣れた手つきで用意されるアンカケユドーフに、ミシェルは驚きを隠すことができない。

マルコの方はと見ると、あまり驚いた風ではなかった。

むしろ、ミシェルがこの接待をどう思っているか不安に感じているといった風だ。

着々と準備されるアンカケユドーフを見て、ミシェルはちょっとした稚気を起こした。

「そうだ、アンカケユドーフだけでは少し物足りないな。追加の註文をいいかな」

「はい、なんでしょう」

やはり自信満々といった風な料理人に、ミシェルは註文する。

帝国のみならず東王国、そして聖王国にもその名を轟かせる吟遊詩人、クローヴィンケル。

彼をして「魔法」と言わせしめた、オムレットがあるという。

多くの貴族がそのオムレットを口にした店を聞き出そうとしたが、クローヴィンケルはいつも、曖昧に微笑むだけで決して口を割ることはない。

「ダシマキタマゴ、だ。ダシマキタマゴを頼む」

ミシェルの口にした東王国訛りのダシマキタマゴ、という言葉を聞いた瞬間、料理人の顔が目に見えて精悍になった。眼光が、鋭い。

「お客さん、通ですね」

「あ、ああ」

ツウが何のことかはよく分からないが、ツウと言われたからにはツウなのだろう。

「餡かけ湯豆腐、できましたよ」

シノブに言われて鍋を見ると、くつくつと何か白いものが野菜と一緒に煮えている。

取り皿に取られ、そこに温かなジュレをを掛けたところを一口。

「……あふっ」

はふ、はふ、らふと口の中で転がすようにして、アンカケユドーフを食べる。

はじめて食べる食感だ。

〈四翼の獅子〉亭の料理も美味かった。

居酒屋ノブのアンカケユドーフも、美味い。

両者は、較べるようなものではないな、とミシェルは温かな塊を飲み下しながら思った。

胃の腑までぽかぽかと温まるアンカケユドーフは、確かにこれからの季節にこそ食べたい。

「お待たせしました。出汁巻き卵です」

ふむ、とナイフとフォークを取り上げる。

見た目は、長四角い単なるオムレットにしか、見えない。

さりとてダシマキタマゴと名を付けて客の前に供するからには……

瞬間、ミシェルの口の中に濃厚な何かが広がった。

「ん……あ……」

口を閉じ、目を瞠り、呆然とすることしかできない。

なんだ、この卵料理は。

なんだというのだ。

くそぅ、クローヴィンケルがこの店のことを頑なに黙っている理由が分かった。

こんなオムレット、いったい、なにが、どうなって。

感じるのは、卵。

それだけではない。

これは……海だ。

この世の涯まで広がる果てしなき大海の恵みを、凝縮した旨さ。

ミシェルはその舌の上に感じていた。

涙。

そう、頬を伝うこの涙は、美味しいものを食べたからだけなのだろうか。

何かが洗い流されるような気持ちに、ミシェルは浸っている。

「お、おい……大丈夫か? お客、樣……?」

不安げに顔を覗き込んできたのは、リオンティーヌという女給仕だ。

「大丈夫。まったく、大丈夫だ。この〈百識の騎士〉ミシェル・ヴェルダン、何の問題もない」

「そ、そうかい? それならいいんだけど……」

まだ訝し気なリオンティーヌに礼を言い、また一口ダシマキタマゴを頬張る。

至福の時。

究極にして至高の卵料理が、ここにある。

あの吟遊詩人クローヴィンケルが「万言を尽くそうと試みたが、魔法というたったの一言しか、出てこなかった」と笑うのも無理はない。

アンカケユドーフと、ダシマキタマゴ。

これは従妹のカミーユにも、いい土産話ができた。

ミシェルが幸福に包まれていると、シノブが別の女給仕に声を掛ける。

こちらはかなり幼い。

「エーファちゃん、今日のまかない、今のうちに食べちゃって」

「はい! ありがとうございます! 今日のまかないは何ですか?」

ほう、まかないか。

こういう店がまかないで何を食べるのか、ミシェルは急に興味が湧き、耳を欹てた。

「今日のまかないはなんと、カレーうどんです!」

「カレーウドン! 楽しみです!」

甘口と中辛、どっちにする、というしのぶの声も、ミシェルの耳にはもう入っていなかった。

カレーウドンと言えば、東王国の王府の一角にあるとされる、とある秘密の名店が近年発売したという噂の、幻の一品だ。

無数の香辛料を特殊な配合で煮込んだ味は、まるで世界創生以前の混沌を思わせる味がするのだとラ・ヴィヨン卿が大絶賛していたのを憶えている。

あれも、食べてみたいな。

ダシマキタマゴの最後の一切れを口にして、ミシェルは註文のために手を挙げようとする。

この店のことは東王国でもどんどん宣伝しよう。

多くの人がここを訪れればいい。紹介者であるミシェル・ヴェルダンの株も上がるはず。

しかし、次の瞬間、言い知れぬ恐怖がミシェルを襲った。

ミシェルの背筋を、得体のしれない恐怖が這い上がって来る。

この店は、何なのだろうか。

何故、この店は自分の食べたいものをすぐに出してくることができるのか。

何が、何故、どうして、いったい。

疑問が脳を渦巻き、ミシェルを黙らせる。

ふと、壁に祀られた異教の祭壇が目に止まった。

「あ、あのミシェルさん……どうしました?」

不安げなマルコの両肩を、ミシェルは両掌で力強く掴んだ。

「分かった。林檎酒の独占取引権のことは、約束する」

人間は、理解できない恐怖を前にしたとき、自然に笑みが零れるという。

ミシェル・ヴェルダンは、居酒屋ノブを笑顔で後にした。

しかし、名物だというトリアエズナマの味だけは、どうしても思い出すことができない。

頭が処理できる以上の情報に悲鳴を上げたのだろうか。

高い記憶力を誇る〈百識の騎士〉が情けないことだと自嘲する。

名目だけの武者修行など放り出し、馬車に飛び乗って東王国に帰り、風呂に入って怠惰な日々を暫く過ごした後に、ふと思い出した。

そういえば、ミシェルはあの日、エールを頼んだのに口を付けなかったのだ。

真相が明らかになり、ミシェルはほっとした。

その後、「帝国で珍しいものを食べましたか」と尋ねられても、ミシェルは柔らかく微笑むだけで、決してどこで何を食べたかを口にしなかったという。