作品タイトル不明
第80話 選択
【七年前・冬】
森の中を、二つの影が走っていた。
イザベラはレオンの手を引き、必死に走り続けた。枯れ葉を踏み、枝を掻き分け、息を切らしながらも足を止めない。背後から、追手の足音が迫ってくる。一人ではない。複数の気配が、獲物を追い詰める猟犬のように、じわじわと距離を詰めてきていた。
「こっちよ、レオン」
イザベラは茂みを掻き分け、獣道を進んだ。この森の地形は分からない。どこに向かっているのかも分からない。だが、とにかく逃げるしかなかった。立ち止まれば、捕まる。捕まれば——この子は、殺される。
◇◆◇
やがて——森が開けた。
月明かりが、突然視界に広がった。目の前に、崖があった。切り立った岩壁が、闇の中に沈んでいる。その下には、凍りついた川が流れていた。月光を受けて、氷の表面が鈍く光っている。
高さは、二十メートルはあるだろうか。いや、それ以上かもしれない。落ちれば、まず助からない。
「行き止まり……」
レオンは呟いた。その声には、絶望が滲んでいた。
◇◆◇
崖の縁に、一本の木が倒れていた。
長い年月の間に朽ちた巨木が、対岸まで橋のように渡されている。だが、その木は細く、所々が腐って崩れかけていた。大人一人が渡れるかどうか——いや、子供でも危ないかもしれない。
「あの木を渡れば——」
イザベラが言いかけた時、冷たい声が背後から響いた。
「無駄だ」
◇◆◇
振り返ると、老人が森の中から姿を現していた。
白い外套が、月光に照らされて銀色に輝いている。その手には、あの青白い槍。穂先が、不気味な光を放っていた。
「逃げ足は速かったが、ここまでだな」
老人はゆっくりと近づいてきた。足音は静かで、枯れ葉一つ踏み鳴らさない。長年の修練が身についた者特有の、無駄のない動きだった。
「諦めろ、霜華の女。その子を渡せば、お前は見逃してやる。お前は、我々の目的ではない」
◇◆◇
イザベラは、レオンの手を握りしめた。小さな手は、震えていた。恐怖で、寒さで——そして、罪悪感で。
「イザベラ様……」
レオンは震える声で言った。
「俺のことは……いいです。逃げてください」
「何を言っているの」
「俺は……デキソコナイです。俺なんかのために、イザベラ様が死ぬ必要なんて——」
「馬鹿なことを言わないで」
イザベラはレオンを見つめた。その目には、怒りではなく——深い優しさが宿っていた。この子は、自分の命よりも、他人の命を優先しようとしている。八歳の子供が、そんなことを言わなければならないほど、追い詰められている。
それが——イザベラには、何よりも悲しかった。
◇◆◇
「聞いただろう?」
老人が一歩、近づいた。槍の穂先が、月光を反射してきらめく。
「この子自身も、分かっているじゃないか。お前が死ぬ必要はない。この子を置いて、逃げればいい。それが、賢明な選択だ」
「……」
「なぜ、赤の他人の子供のために命を懸ける? 馬鹿げている。お前には、実の息子が二人いるだろう。その子たちを、孤児にするつもりか」
老人の言葉には、奇妙な説得力があった。合理的で、冷静で——そして、残酷なほど正論だった。
◇◆◇
イザベラは、ゆっくりと口を開いた。
「赤の他人じゃないわ」
「何?」
「この子は、私の家族よ」
イザベラはレオンの手を、さらに強く握りしめた。その手は温かく、力強く、レオンの震えを抑えようとしていた。
「オースティンとエイドリアンの弟。私にとっても、大切な家族と同じ。血が繋がっているかどうかなんて、関係ない」
「くだらない」
老人は鼻で笑った。その笑い声は、乾いていて、温かみがなかった。
「血も繋がっていない子供のために、命を捨てるのか。愚かな女だ。その愚かさが、お前を殺すことになる」
◇◆◇
イザベラは答えなかった。
代わりに、レオンの前にしゃがみ込んだ。目線を合わせ、その小さな顔を、両手で包み込む。
「レオン」
「……はい」
「よく聞いて」
イザベラは、レオンの目をまっすぐ見つめた。その目は、涙で潤んでいた。だが、声は震えていなかった。
「私が時間を稼ぐわ。その間に、あの木を渡って、逃げなさい」
◇◆◇
「嫌です——!」
レオンは叫んだ。その声は、悲鳴に近かった。
「イザベラ様を置いて、逃げるなんて——できません——!」
「レオン」
「俺のせいで……俺のせいで、イザベラ様が死ぬなんて——嫌です——! そんなの、絶対に嫌です——!」
レオンの目から、涙が溢れた。頬を伝い、顎から落ち、地面を濡らしていく。
◇◆◇
イザベラは、そっとレオンの頬に手を当てた。涙を拭うように、優しく撫でる。
「泣かないで」
「でも——」
「一つ、お願いがあるの」
イザベラは微笑んだ。涙が滲む目で、それでも微笑んでいた。その笑顔は——レオンがいつも見てきた、優しいイザベラの笑顔だった。
「オースティンとエイドリアンに、伝言を届けて」
◇◆◇
レオンは首を振った。何度も、何度も。
「嫌です……俺、そんなの伝えたくない……イザベラ様が自分で言ってください……生きて、自分で伝えてください……」
「レオン」
「お願いです……一緒に逃げてください……俺、イザベラ様がいなくなったら……」
「聞いて、レオン」
イザベラの声が、少しだけ厳しくなった。優しさの中に、揺るぎない決意が混じっていた。
「これが、最後のお願いよ」
◇◆◇
レオンは、涙で歪んだ視界で、イザベラを見つめた。
彼女は、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。だが、その目には——覚悟が宿っていた。自分の運命を受け入れた者の、静かな覚悟。それは、悲しいほど美しかった。
「オースティンに伝えて」
イザベラは言った。
「あの子は、私の太陽だって。どんな時も、私を照らしてくれたって。永遠に、愛しているって」
「……」
「エイドリアンには……ごめんなさいって伝えて。お母さんは、あなたが大人になるのを見届けられなくて、本当にごめんなさいって。でも、あなたのことを、心から愛しているって」
◇◆◇
「イザベラ様……」
レオンは嗚咽を漏らした。言葉が、喉に詰まって出てこない。
「二人のこと、お願いね。あなたは、私の息子たちの弟だから。家族だから。だから——生きて」
イザベラは立ち上がった。その背中は、小さくて、細くて——それでも、どこか強く見えた。
「さあ、行きなさい」
「でも——」
「行きなさい!」
イザベラはレオンを押した。強く、背中を。倒れた木の方へ。
「走って! 振り返らないで! 絶対に、振り返らないで!」
◇◆◇
レオンは、よろめきながら走り出した。
涙で前が見えない。足がもつれる。だが、足は止まらなかった。イザベラの声が、背中を押していた。
倒れた木に足を乗せる。ぐらぐらと揺れる。木の皮が剥がれ、下の闇に落ちていく。だが、構わずに進んだ。一歩、また一歩。
(イザベラ様——イザベラ様——)
背後から、激しい戦闘の音が聞こえてきた。氷が砕ける音。槍が空を切る音。そして——イザベラの叫び声。
◇◆◇
イザベラは、老人の前に立ちはだかった。
両手を広げ、逃げる気配を見せない。その姿は、まるで——子を守る母鳥のようだった。
「行かせないと言ったはずだが」
老人は槍を構えた。
「私を倒してから、追いかけなさい」
イザベラは両手を広げた。その体から——淡い青白い光が溢れ始めた。冷気が、周囲の空気を震わせる。
◇◆◇
「それは……」
老人の目が、僅かに見開かれた。長年の経験が、危険を告げている。
「霜華の禁術か。命を代償にする魔法……本気か。本気で、あの子のために死ぬつもりか」
「本気よ」
イザベラの髪が、風もないのに舞い上がった。銀色の髪が、月光を受けて輝く。その姿は、美しく——そして、悲しかった。
「この子を守るためなら——私の命など、惜しくない」
◇◆◇
イザベラの体が、白く輝き始めた。
皮膚が、透明になっていく。まるで、氷のように。血管が、青白く浮かび上がる。命が、魔力に変換されていく。霜華の民に伝わる、最後の手段——命を代償に、最大の力を放つ禁術。
「霜華絶唱——」
イザベラの声が、夜の森に響き渡った。
◇◆◇
閃光が、全てを包み込んだ。
凄まじい冷気が、森を駆け抜けていく。木々が凍りつき、地面が白く染まっていく。草も、石も、空気さえも——全てが、氷に覆われていく。
老人は槍を構え、氷の嵐を防ごうとした。だが、その威力は想像を超えていた。
「ぐっ——!」
氷の刃が、老人の体を貫いた。一本、二本、三本——鋭い氷が、次々と老人の体を突き刺していく。
老人の体が、凍りついていく。足から、腕から、胴体へと。白い霜が、老人を覆っていく。
◇◆◇
レオンは、対岸に辿り着いた。
朽ちた木を渡り終え、安全な地面に足をつけた瞬間——振り返った。振り返るなと言われた。だが、振り返らずにはいられなかった。
白い光が、夜空を照らしていた。まるで、星が落ちてきたかのように。その光は美しく、そして——悲しかった。
(イザベラ様——)
足が、動かなくなった。逃げろと言われた。振り返るなと言われた。だが——レオンは、その場に立ち尽くしていた。
◇◆◇
やがて——光が収まった。
森が、静まり返った。風の音さえ、聞こえない。全てが、凍りついたかのような静寂。
レオンは、崖を回り込み、元の場所に戻った。走って、転んで、また走って——息を切らしながら、あの場所に戻った。
そこには——イザベラが、倒れていた。
◇◆◇
「イザベラ様——!」
レオンは駆け寄った。膝をつき、イザベラの傍にしゃがみ込む。
イザベラの体は、半透明になっていた。まるで、氷の彫像のように。肌は青白く、髪は霜に覆われ、瞳は閉じられている。
「イザベラ様——! イザベラ様——!」
レオンはイザベラの体を揺すった。だが、反応はなかった。冷たい。氷のように、冷たい。
◇◆◇
「レオン……」
微かな声が、聞こえた。
レオンは息を呑んだ。イザベラの目が、僅かに開いていた。その瞳は、かすんでいたが——まだ、光があった。
「逃げなさい……と……言ったのに……」
「イザベラ様——!」
「いい子ね……」
イザベラは、微かに微笑んだ。その笑顔は、いつもと変わらなかった。優しくて、温かくて——レオンが、大好きだった笑顔。
「伝言……忘れないで……」
「嫌です——! 死なないでください——! お願いです——!」
「オースティンと……エイドリアンを……頼むわね……」
イザベラの目が、ゆっくりと閉じていった。その表情は、穏やかだった。苦しみも、後悔もない。ただ——安らかだった。
「あなたは……デキソコナイなんかじゃ……ない……」
◇◆◇
イザベラの手が、力なく落ちた。
地面に、小さな音を立てて。それが——最後だった。
「イザベラ様——? イザベラ様——!」
レオンは叫んだ。だが、返事はなかった。もう、何も聞こえなかった。
「嘘だ……嘘だ……!」
レオンは、イザベラの体にすがりついた。涙が、止まらなかった。声にならない叫びが、喉から漏れる。
◇◆◇
「可哀想に……」
声が、聞こえた。
レオンは顔を上げた。老人が、まだ生きていた。体の大半は凍りついていたが、まだ息があった。血が、氷の上に広がっている。口から血を吐きながら、それでも老人は笑っていた。
「霜華の女……赤の他人の……子供のために……命を捨てるとは……」
老人は、苦しげに笑った。その笑い声は、嘲りと——どこか、感嘆が混じっていた。
「愚かな……実に……愚かだ……お前のせいで……この女は……死んだ……」
◇◆◇
その時——
森の中から、馬の蹄の音が響いてきた。
地面を叩く音が、どんどん近づいてくる。松明の光が、木々の間に見える。複数の騎馬が、全速力でこちらに向かってきていた。
「イザベラ——!」
セレリックの声だった。
◇◆◇
セレリックが、馬から飛び降りた。
その後ろから、エイドリアンとオースティンも続く。追跡隊の騎士たちが、次々と森の中から現れた。
「イザベラ——!」
セレリックは駆け寄ろうとした。だが、その足が——止まった。
目の前の光景を、見たからだ。
◇◆◇
イザベラが、倒れていた。
体は半透明に変わり、まるで氷の彫像のようだった。命の光は、もう残っていない。
そして——その傍に、レオンが座っていた。全身を震わせ、涙を流しながら、イザベラの体にすがりついている。
「母さん——!」
エイドリアンが叫び、駆け出そうとした。
その時——
◇◆◇
「可哀想に……」
老人の声が、響いた。
死にかけの老人が、最期の力を振り絞って、言葉を紡いでいた。その目は、レオンを見つめていた。
「赤の他人の……子供……お前のために……この女は……死んだのだ……」
老人は、血に塗れた口で笑った。
「お前が……いなければ……この女は……死なずに……済んだ……」
◇◆◇
エイドリアンは、その言葉を——聞いた。
足が、止まった。母の傍に駆け寄ろうとした足が、凍りついたように動かなくなった。
「赤の他人の……子供……」
老人の言葉が、頭の中で繰り返される。
「お前のせいで……」
◇◆◇
老人は、最期の息を吐いた。
「愚かな……女だ……」
そう言い残し、老人の目から光が消えた。体が、完全に凍りつき、動かなくなった。
だが——その言葉は、消えなかった。
エイドリアンの耳に、深く刻み込まれていた。
◇◆◇
「母さん……」
エイドリアンは、ゆっくりとイザベラの傍に近づいた。
膝をつき、母の顔を見つめる。美しかった顔は、氷のように青白くなっていた。目は閉じられ、唇には微かな笑みが残っていた。まるで——安らかに眠っているかのように。
「母さん……母さん……!」
エイドリアンは、イザベラを抱き起こした。冷たかった。氷のように、冷たかった。命の温もりが、もう残っていなかった。
「嘘だろ……嘘だと言ってくれ……」
◇◆◇
セレリックが、傍に立った。
その顔には、深い悲しみが刻まれていた。愛する妻を失った男の、言葉にならない苦しみ。
「イザベラ……」
セレリックは膝をつき、イザベラの頬に手を当てた。冷たい。もう、温もりは戻らない。
「なぜ……なぜ、お前が……」
◇◆◇
オースティンは、呆然と立ち尽くしていた。
母が、死んでいる。信じられなかった。今朝まで、一緒に朝食を食べていたのに。笑顔で、「気をつけて」と言ってくれたのに。
「母上……」
涙が、頬を伝った。
◇◆◇
エイドリアンは、ゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた目が——レオンを、捉えた。
「赤の他人の……子供……」
老人の言葉が、頭の中で響いている。消えない。消せない。
「お前のせいで……母さんは……」
◇◆◇
「エイドリアン兄上……」
レオンは、涙を流しながら言った。
「違うんです……イザベラ様は……伝言を……」
「黙れ」
エイドリアンの声が、低く響いた。その声には、感情がなかった。冷たく、硬く、まるで氷のようだった。
◇◆◇
「お前のせいだ」
エイドリアンは立ち上がった。イザベラの体を、そっと地面に横たえて。
「お前が……お前がいなければ……母さんは、死ななかった」
「違います——! イザベラ様は、俺を守ろうとして——」
「黙れと言っている!」
エイドリアンは叫んだ。その声は、森中に響き渡った。その目には、涙と——憎しみが、渦巻いていた。
◇◆◇
「あの老人が言っていた……赤の他人の子供のために、母さんは死んだと……」
エイドリアンの声が、震えていた。怒りで、悲しみで、そして——自分でも制御できない感情で。
「お前なんかのために……母さんは……命を捨てた……」
「エイドリアン兄上……イザベラ様が……伝言を……」
レオンは、涙を拭いながら言った。イザベラの最期の言葉を、伝えなければ。それが、自分にできる唯一のことだった。
「聞きたくない!」
エイドリアンはレオンを突き飛ばした。強く、容赦なく。
「お前の口から、母さんの言葉を聞きたくない……! お前なんかに、母さんの言葉を語る資格はない……!」
◇◆◇
レオンは、地面に倒れた。
背中を打ち、息が詰まる。立ち上がろうとしたが、体に力が入らなかった。心も、体も、限界だった。
「エイドリアン兄上……お願いです……聞いてください……イザベラ様の最期の言葉を……」
「消えろ」
エイドリアンの目が、冷たく光った。その目には——もう、かつての兄の優しさは、残っていなかった。
「二度と……俺の前に現れるな……デキソコナイ」
◇◆◇
「兄上——!」
オースティンが、駆け寄ってきた。
「落ち着いてください——! レオンのせいじゃない——!」
「落ち着ける訳があるか!」
エイドリアンは叫んだ。その顔は、涙と怒りで歪んでいた。
「母さんが死んだんだぞ! こいつのせいで——!」
「違う——! 母上は、レオンを守ろうとして——」
「お前も黙れ、オースティン!」
エイドリアンはオースティンを睨みつけた。その目には、憎しみがあった。
「お前が……お前があの老人に屋敷のことを教えなければ……こんなことには、ならなかった……」
オースティンの顔が、蒼白になった。言葉を失い、その場に立ち尽くす。
◇◆◇
「やめろ、エイドリアン」
セレリックが、二人の間に割って入った。その声は、静かだった。だが、その静けさの奥に——深い悲しみと、抑えきれない苦しみが、隠されていた。
「今は、責め合う時ではない」
「でも、父上——!」
「やめろと言っている」
セレリックの声が、僅かに震えた。
「イザベラを……連れて帰るぞ。彼女を……家に、帰してやらねば」
セレリックは、イザベラの体を抱き上げた。軽かった。こんなにも、軽かった。命を燃やし尽くした体は、羽のように軽かった。
◇◆◇
エイドリアンは、最後にレオンを見下ろした。
地面に座り込んだまま、涙を流すレオン。かつて、弟のように可愛がっていた少年。剣を教え、一緒に遊び、将来を語り合った少年。だが、今は——憎しみの対象でしかなかった。
「覚えておけ」
その声は、氷のように冷たかった。
「お前は、母さんを殺した。俺は、絶対に忘れない。絶対に——許さない」
エイドリアンは踵を返し、歩いて行った。振り返ることなく、闇の中へ消えていった。
◇◆◇
オースティンは、レオンの傍に膝をついた。
「レオン……」
「オースティン兄上……俺……イザベラ様の伝言を……」
「分かってる」
オースティンは、レオンを抱きしめた。小さな体が、震えていた。
「君のせいじゃない。母上は……君を守ろうとしたんだ。それは、母上の選択だった」
「でも……エイドリアン兄上は……」
「兄上は……今、混乱しているだけだ。きっと、時間が経てば……」
オースティンは言葉を続けられなかった。本当にそうなのか、自分でも分からなかったからだ。
◇◆◇
セレリックが、イザベラを抱いたまま、振り返った。
「オースティン、レオンを連れて来い。夜明けまでに、屋敷に戻るぞ」
「はい、父上」
オースティンは立ち上がり、レオンの手を取った。
「行こう、レオン。立てるか?」
レオンは、よろめきながら立ち上がった。足に力が入らない。だが、オースティンが支えてくれた。
◇◆◇
一行は、森を抜け、屋敷へと向かった。
エイドリアンは、一度も振り返らなかった。セレリックは、イザベラを抱いたまま、無言で歩き続けた。オースティンは、レオンの手を握りしめながら、ただ前を見て歩いた。
誰も、言葉を発しなかった。
ただ、馬の蹄の音と、風の音だけが、夜の森に響いていた。
◇◆◇
レオンは、歩きながら、何度も振り返った。
あの場所を。イザベラが最期を迎えた場所を。もう、何も見えない。闇に沈んでいる。
(イザベラ様……)
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
伝言は、届けられなかった。イザベラの最期の言葉は——永遠に、レオンの胸の中に閉じ込められた。
オースティンへの言葉も、エイドリアンへの言葉も。彼女が命を懸けて伝えようとした想いは、誰にも届かなかった。
◇◆◇
夜明けが近づいていた。
空が、少しずつ白み始めていた。東の空に、淡い光が差し込んでくる。
だが、レオンの心には——永遠に、夜が訪れていた。
凍てつく夜。終わらない夜。光の届かない、暗闇の底。
八歳の少年は、その夜——何か大切なものを、永遠に失った。
【続く】